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歴史ミステリー⑤ 大化の改新の真相

615年、当時の”大和朝廷”を事実上牛耳っていたとされる蘇我入鹿が、かねてから彼の”専横”に不満を抱いていたとされる中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、高句麗、新羅、百済の使者が大王(天皇)への貢物を奏上する席に参加するために、飛鳥板蓋宮へ向かっている所を待ち伏せされ”暗殺”される、という”事件(乙己の変)”が起こり、その後中国の”律令制”などを取り入れた”天皇中心”の”政治機構”が作られました。これが世にいう”大化の改新”といわれる”政治クーデター”の全容です。

これまでの”通説”では、蘇我蝦夷、入鹿親子が”天皇”に成り代わって政治を”独占”していた”悪人”とされ、中大兄皇子と中臣鎌足が、彼らを成敗した”正義のヒーロー”とされてきました。しかしながら、この”説”の元になる書物は「日本書紀」という、その後の時代に中大兄皇子=天智天皇の”実弟”とされる天武天皇によって”編纂”された、あくまでも”体制側”の書物であって、当然”体制側”を”正当化”されるように描かれたもである事は間違いないはずです。となれば、”事の真相”はいかに!?

その”真相”とされる説はいくつか存在し、①中大兄皇子、中臣鎌足による”政権略奪”説、②蘇我親子”別王朝”説、③蘇我入鹿=聖徳太子説、④中臣鎌足=聖徳太子の実子説、⑤皇極天皇、軽皇子(孝徳天皇)親子黒幕説、などが上げられます。

まず、最も一般的に解釈されている①の”中大兄皇子、中臣鎌足による”政権略奪”説”ですが、これはあくまでも自分達が蘇我氏に代わって”政権”を牛耳る為に、時の”権力者”である蘇我蝦夷、入鹿を倒した、とする説です。まぁ、普通に考えれば最も”妥当”な説でしょう。そして、それが”成就”された後の時代のその”真実”を入れ替えてしまえば済む話ですから。しかし、それだけなら、ちょっと”説明不十分”な所も多々あります。もしこれが”真実”ならば、中大兄皇子と中臣鎌足とて”反逆者”である、という事。少なくとも、時の天皇皇極天皇がそう判断すれば、当然彼らとて”処罰”されるはずです。しかも、中大兄皇子は”皇族”でありながら、本来”天皇継承権”を持たない人物だったらしく、中臣鎌足も所詮は”貧乏弱小豪族”に過ぎなかったらしいです。そのような人達が、いきなり”クーデター”を起こせるような”武力”を持っているとは到底思えません。おそらく、”何者”かの”命令”によって動いていた事は間違いないのでしょう。

そこで、次に言われるのが②の”蘇我氏別王朝説”です。蘇我氏は、元々天皇とは別の”王族”だった、とする説です。となれば、当然、天皇とも匹敵する”権力”を持っていて当然でしょう。そもそも、日本が元来複数の”民族”、”国家”から成り立っていた事は、”魏志倭人伝”によって明らかになっている為、”大化の改新”が最終的な”国家統一”であった可能性も否定出来ないでしょう。そして、現在いに到る”天皇家”を”正当化”する為に”天孫降臨神話”をでっち上げ、あたかも日本は初めから天皇によって支配されていた”単一国家”であると「古事記」「日本書紀」では主張されてきた訳です。でも、それが実は”勝者側”によって編纂されたものであれば、”大化の改新”以前はまだ日本は完全に統一されていなかった可能性もあると思います。

その②の説の”発展系”の説として、実はその”蘇我王家=聖徳太子一族”であり、具体的に言ってしまえば”蘇我入鹿=聖徳太子”という説です。となると、太子とともに実権を握っていた蘇我馬子が入鹿の父蝦夷と”同一人物”という事になります。そうなると、「日本書紀」では、同じ出来事を”時代”を分けて”別の出来事”として描いた、という事になります。事実、「古事記」、「日本書紀」における”神話時代”の記述に関しては、このような”引用”をどうやらとっているようです。というのは、そこに出てくる”神”や”天皇”が、全国にある”神社”に祭られている”神”の名前を紐解く事で、実は”同一神”である事が明らかになったからです。ただ、”歴史時代”となるとどうでしょう? 同じ出来事を”別時代”に分けるという事は、その”歴史的背景”も関与してくる以上やや無理があるかと思います。それに、この説は一昔前には多くの作家も唱えていましたが、最近ではあまりこの説を唱える作家はいなくなっているようです。

で、今度はやはり”蘇我氏=悪人”を前提にした説で、彼らを討った一方の雄、”中臣鎌足=聖徳太子の実子説”です。この説は、その前に聖徳太子が彼とともに政治を動かしていた蘇我馬子に実は殺害されていた、とする説を”前提”としなければなりません。実際、この説は現在の所”有力視”されているようですが、その”仇討ち”としてその”息子”とされる中臣鎌足が中大兄皇子を頼って”敵”である蘇我親子を殺害した、というものです。されど、この説はあまりにもその確実な”証拠”が見当たらないし、現時点ではまだ取ってつけたような説でしかないのは事実です。

最後に、最近”有力視”されるようになった⑤の”皇極天皇-軽皇子(後の孝徳天皇)黒幕説”です。そもそも、”大化の改新”という事件を計画した”張本人”は皇極天皇であり、その本当の”目的”が、我が子軽皇子に”皇位継承”をさせるためだった、とする説です。それによって、まず、当時”次期天皇最有力候補”であった聖徳太子の息子とされる山背大兄王を”始末”する必要があったという事。その命令を蘇我入鹿に下していたとしたらどうでしょう? 現に、この件に関しては実は蘇我入鹿による”単独行動”ではなく、そこに軽皇子や他の豪族も加わっていた事が後々の資料によって明らかになっているようです。しかし、当然この”事件”に皇極帝の”嫡子”である軽皇子が加わっていた事が公になってはまずいはず。それと引き換えにこの事件の”指揮”を取った蘇我入鹿に”政治的権限”を一切任せざるを得なくなった、という事ではないでしょうか。となれば、皇極帝に対する”弱み”を握った蘇我入鹿が次第に”横暴”になるのも確かな話。そして、ついに手がつけられないほど、蘇我氏の”専横”が極まってしまったのではないでしょうか。となると、今度はこの入鹿を”殺害”せざるを得なくなる訳です。それを今度は同じ”皇族”である中大兄皇子と”祭祀”を司る一族であった中臣鎌足に命じた、という事ではないでしょうか。ある程度、自分の”手のひら”の上にいる連中であれば同じような”過ち”をする事は無いはずですから。そして、自分達の”系統”を”正統”とした”中央集権国家”を作るべく、中国の”律令制度”を取り入れ”大化の改新”を形作った、という事なのでしょう。その”事業”を取り仕切ったのは、”蘇我氏暗殺”の”実行犯”であり、”政治的器量”も備わっていたと思われる中大兄皇子と中臣鎌足だった、という事ではないでしょうか。

まぁ、いずれを取っても、この”事件”に皇極天皇-軽皇子親子が関わっていた事はほぼ間違いないでしょう。そして、蘇我氏がそれだけの”権力者”であった事も間違いないはず。それゆえ、天皇家と並ぶ”別王朝”の王であった可能性も否定出来ないでしょう。それから、聖徳太子に関しては、実は”複数”の人物の逸話をつなぎ合わせて作った”架空の人物”の可能性が出てきたようです。厩戸皇子をベースに、彼の”実弟”である久目皇子の他、様々な”人物像”を重ねて作った”聖人”で、もしかするとその中に蘇我入鹿の”人物像”もおそらく重ねられている可能性はあるでしょう。おそらく、”鍵”を握るのはかつての”天皇家”の様々な一派が、本当に一つの”血筋”だったのか?という事だと思います。”単独王朝”だったのか? それとも”複数王朝”だったのか? その”真相”はいかに!?
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  1. 2005/07/24(日) 21:35:07|
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関 裕二著「聖徳太子の秘密」

中々書く時間がなく、本当は”本スレ”の方に書きたかったのですが、とりあえず簡潔にこちらの方に書きます。

この著書は、”本スレ”でいう所の②あるいは③の説に相当し、厳密に言えば”蘇我系天皇家(蘇我氏の血を引く天皇家)=蘇我氏”として、それらの”呪い封じ”の為に法隆寺が建立された、とこの著書では書かれています。”蘇我系天皇家”とは、聖徳太子やその”息子”とされる山背大兄王ら”上宮王家”と呼ばれる一族や、天武天皇、長屋王などを指し、その中で”聖徳太子”や”山背大兄王”は蘇我入鹿らを反映させた”架空の人物”とし、天武天皇や長屋王などはその”血”を引く者として後に”政治的実権”を握る事になる中臣鎌足の子孫である”藤原氏”に恐れられ、法隆寺に祀られたのではないか?としています。
それから、「古事記」「日本書紀」は表向きには天武天皇の勅命で編纂された、とされていますが、それはあくまでも内容の”カムフラージュ”の為に天武天皇の名が使われただけであり、実際にその”勅命”を出したのは天武の”妻”であり、天智天皇(中大兄皇子)の”妹”である持統天皇で、”編纂”に直接携わったのが中臣(藤原)鎌足の息子である藤原不比等である、としています。ちなみに、天智天皇と天武天皇は全く血がつながっていない、というのは現在多くの研究者が唱えているようです。

まぁ、僕の感想としては、この説の言わん事は理解できるのですが、いささか”不満”もあります。それは、「日本書紀」では聖徳太子の”参謀”とされる”秦氏”の事に全く触れていなかった事。でも、僕が思うにこの”秦氏”こそ重要な存在ではないか?と思うのです。彼らが、事実上現代の”天皇家”と”日本神道”を形作ったといっても過言ではなく、そうなれば「古事記」及び「日本書紀」にも当然ながら携わっていたはずです。”大化の改新”の”黒幕”も実は秦氏ではないか?という気がしてなりません。”大化の改新”以降の日本を牛耳ったのは”表向き”には中大兄皇子と中臣鎌足であり、それ以降は中臣鎌足の血を引く藤原氏が日本の”政治”を牛耳ったとされていますが、それを”背後”で動かしていたのは秦氏なのではなかろうか? ただ、そうなるともし聖徳太子が”蘇我氏”であったならば、秦氏が蘇我氏の”参謀”だったと言う事は考えにくくなります。

しかし、聖徳太子は何故”聖者”とされながら”天皇”にはなれなかったのか? それと、法隆寺で行われる祭り「聖霊会」では”蘇莫者”という蘇我入鹿を彷彿とさせる人物と聖徳太子を主人公とした”舞楽”が行われたり、また、蘇我入鹿を祭る”蘇我神社”に何故か聖徳太子が祭られていたり、それから、聖徳太子の息子とされる山背大兄王とその一族は蘇我入鹿に責め滅ぼされているにもかかわらず、彼らの”墓”が見当たらず、更に法隆寺にも祭られていないとの事。いずれにしても”謎”が多く、しかも聖徳太子と蘇我氏が重なる部分は結構あるとの事です。考えようによっては、”山背大兄王襲撃事件”と”乙巳の変(蘇我入鹿襲撃事件)”が実は同じ事件を重複したものではないか?とも思えます。そうなると、蘇我入鹿=山背大兄皇子、蘇我蝦夷=聖徳太子、と言う事になり、山背大兄王を襲撃した”蘇我入鹿”とされる人物が実は中大兄皇子と中臣鎌足だったのではないか?とも推測できます。

となると、聖徳太子の”参謀”とされる秦河勝なる人物が実は”曲者”で、彼が本当に聖徳太子の”参謀”だったのかどうかかなり怪しくなってきます。彼は当時”神道”を牛耳っていた物部氏(原天皇家?)から”祭祀”の職を奪う為に蘇我氏(蘇我馬子と聖徳太子?)と手を組み物部氏を滅ぼしたのではないのでしょうか? それと、中臣氏は実は秦氏の一族のようですから。そして、現在の”天皇家”の”一党独裁”の体制を作る為にやがて蘇我氏も滅ぼし、その血を引く王家(天武王朝)も滅ぼして、平城京(奈良)から平安京(京都)に遷都させて、今の”天皇家”を作ったのではないでしょうか。

まぁ、これらもいくつかの本を読んだ上で書いたもので、ちょっと大雑把な書き込みになってしまいましたけど、”時間的都合”もあってこれが精一杯です(汗) いずれ、時間がある時にもう少し詳しい事を書きたいと思います。
  1. 2005/10/02(日) 19:57:04 |
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