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岐阜~愛知への旅(1日目)

5月2日から2泊3日で岐阜~愛知方面へ旅行へ行ってきました。1日目、新横浜からAM9:00頃の新幹線に乗って、名古屋へ向かったのですが、途中静岡で新幹線は停車(汗) 「この新幹線、”のぞみ”なのに静岡に停まるのか?」という疑問に駆られると、「只今、掛川駅におきまして、不審者が線路内へし侵入したため安全確認のため運転を見合わせます。」という”場内アナウンス”が入り、「こっちは予定が詰まってるんだから早く動け!」と心の中で叫んだものの、約30分間静岡に停車(泣) ようやく走ったのも束の間、掛川の少し手前で再び停車(冷汗) 「只今、掛川駅におきまして、不審者が線路内へし侵入したため安全確認のため運転を見合わせます。」というアナウンスが再び入り、約10分間停止(愕然) 結局、約40分間到着が遅れてしまいました(怒) この”不審者”が何をしたかったのかは今もって”不明”なのですが、”ゴールデンウィーク”になると必ず頭のおかしい奴が出てくるから困る! もっとも、”新幹線ジャック”や”爆弾テロ”出なかっただけでも一安心ですけどね。

名古屋駅に到着すると、かなり慌てて昼食をとる事に。とりあえず、時間もないので地下飲食店街にあるひつまぶしの店へ入り、ひつまぶしを注文。”値段”の割には少々物足りなさも感じましたが、贅沢を言っている暇などありません。食後、すぐ名鉄本線へ乗って新清洲へ向かいました。新清洲駅に到着後、そこから徒歩約15分ご清洲上に到着。しかし、現在の”戦国ブーム”や経済的事情による”町おこし”の関係上、多くの城は”天守”のみならず、別の”展示室”を設けてそれとチケットを”セット売り”しているのが普通になっているようです。”新幹線の遅れ”のために予定が大幅に狂ってしまったのですが、仕方なく”お江の館”とセットのチケットを購入。

清州城






清洲城

この城は、平成元年(1989年)に清洲町の町制100周年を記念して復元されたもので、城内は”展示室”になっており、織田氏を中心とした展示物が公開され、また、床が”板張り”になっていたのが良い感じでしたね。”外観”は、”黒板張り”の3層4階の”望楼型天守(最上階が他の階と構造の違う造りのもの)”といった”安土・桃山様式”で、中々格好良いたたずまいでした。
清洲城:応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。その後、”尾張守護代”織田家の居城となり、一時信長の父・織田信秀が”清須奉行”として入城した後、尾張守護代最後の当主・織田信友が入城するも、弘治元年(1555年)分家である織田信長によって追放、殺害され、以降”美濃攻略”まで信長の居城となる。信長が岐阜城に移転後は、番城(城代管理の城)となる。信長が”本能寺の変”で討たれた後、家臣の羽柴(のちの豊臣)秀吉、柴田勝家を中心とした後継者を決める”清須会議”が執り行われ、その後信長次男の信雄が入城。その後、秀吉の甥・豊臣秀次が引き継いだ後、秀吉子飼の猛将・福島正則の居城となる。秀吉死後、慶長5年(1600年)、”関ヶ原の戦い”後、”東軍側”についた福島正則は戦功によって安芸広島に転封となり、代って家康四男・松平忠吉が城主となり、彼の死後家康九男義直が入城するも、拠点を名古屋へ移転したため、慶長18年(1613年)名古屋城完成とともに廃城。

天守を出た後、大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」に関する展示がされている”江の館”へ入り、少し休憩をしてから、城を出て新清洲駅へ向かおうとしたのですが、出た直ぐの所に”信長像”の看板が目に入り、そちらに立ち寄ってから駅へ向かいました。

織田信長像








織田信長像

名鉄本線・新清洲駅から終点の名鉄岐阜駅へ向かい、約30分後に到着。そこから、バスで10分ほど行った所に岐阜公園があり、その中にある”ロープウェイ乗り場”からロープウェイに乗って”金華山山頂”へ到着。そこから少し山道を歩いて岐阜城に到着。まさに”難攻不落”と言われた通り、山の斜面もかなり急で、天守も結構”がっけぷち”の所に建っていて結構スリリングでした(汗) こちらの天守も明治43年(1910年)に一度復元され、昭和18年(1943年)に焼失するも、昭和31年(1956年)”鉄筋コンクリート”で再建。城内は”展示室”になっており、斎藤氏、織田氏を中心とした展示物が公開されていました。 また、”難攻不落の山城”だけあって、最上階からの眺めは最高でした(この日は少々モヤが掛かっていましたが(汗))。

岐阜城






岐阜城

岐阜城から見た光景






岐阜城から見た光景

岐阜城:1201年(建仁元年)に二階堂行政が稲葉山(現金華山)に砦を築いたのが始まりで、一度”廃城”になるも、15世紀の中頃、美濃守護代・斎藤利永によって修復。その後、1525年、斎藤利永の家臣、長井長広と長井新左衛門尉(斎藤道三の実父とされる人物)が謀反を起こし稲葉山城を攻撃し、長井長広が城主となるも、長井新左衛門尉、新九郎(後の斎藤道三)父子によって長広が殺害され(諸説あり)、更に新左衛門尉死後、1533年(天文2年)嫡子の新九郎が城主となり、1539年(天文8年)守護代となり斎藤利政と改名して城を改築。2年後の1541年に美濃守護・土岐頼芸を追放し美濃を支配。1554年、家督を嫡子・義龍(土岐頼芸の隠し子という説があり)に譲り、剃髪して道三と名乗る。しかし、2年後の1556年、斎藤道三は”長良川の戦い”にて嫡子・義龍によって討ち死に。その後、1561年、義龍急死によってその子龍興が城主になるも、やがて家臣たちの造反を生み、安藤伊賀守守就と竹中半兵衛重治によって城主・斎藤龍興は追放され、この2名及び稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)と内応した織田信長が、1567年稲葉山城を攻略し、拠点を尾張・清須城(清州城)から稲葉山城に移し、中国の故事(周王朝の文王が岐山によって天下を平定した事)にならって岐阜城と名を改める。1576年、信長は近江の安土に拠点を移し、岐阜城を嫡子・信忠に譲る。1582年、”本能寺の変”によって信長・信忠父子は討ち死に。その後、”山崎の戦い”、”賤ヶ岳の戦い”を経て羽柴(豊臣)秀吉に味方した池田恒興の嫡男・元助が1583年に城主となるも、翌年に起こった”小牧・長久手の戦い”で父・恒興とともに戦死したため、弟・輝政が城主となる。1591年、池田輝政転封のため、秀吉の甥・羽柴秀勝が城主となり、翌1592年、”朝鮮出兵”により命を落とした秀勝に代わって、信長の嫡孫・織田秀信が城主となるも、1600年の”関ヶ原の役”にて”西軍”に付いたため、高野山へ追放され、1601年、徳川家康によって”廃城”が決定する。

岐阜城のある金華山の山麓には、通常信長が暮らしていたとされる”館”があり、そこには金閣寺をも凌ぐ程の煌びやかな三層の建造物が立っていたようです。この事から、かつては岐阜城が”日本最初の天守”があった、という説がありましたが、信長の頃にはまだ無かった、という事になるでしょう(もっとも、当時あんな高い所に天守を築くなんていくら信長でも無理でしょう)。

岐阜城信長館跡






信長館跡

岐阜城を見終えて、ロープウェイを降りた後は、公園内にある「名和昆虫博物館」に入りました。岐阜で発見された”ギフチョウ”をはじめ、世界の珍しい昆虫の標本が感ず多く展示されていました。

岐阜公園を出ると、バスで岐阜駅へ向かい、ホテルでチェックインして、再び夕食をとるために街へ出、名鉄岐阜駅付近の居酒屋に入り、”飛騨牛棒葉味噌”、”鶏ちゃん”等を食べ、その居酒屋を出た後も、何か物足りずに”ステーキ屋”に入りステーキを軽く食べてからホテルへ戻りました。
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  1. 2011/05/07(土) 22:18:09|
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