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”アイドル戦国時代”の裏側で・・・ -上原美優自殺-

ここのブログで”アイドルネタ”を取り上げるのは非常に稀ですが、今や”AKB48”をはじめ数多の”女性アイドルグループ”でひしめき合っており、更に”KARA”、”少女時代”等の”韓国系女性アイドル”も加わって、いつしか”女性アイドル戦国時代”と呼ばれるようになりました。しかし、ここ最近は、もはや”戦国時代”どころか”AKB48”が完全に”天下”を握ってしまった状況にあり、”グラビア界”でもほしのあき、優木まおみらが築いた”三十路グラビアアイドル”というジャンルまでも、AKBの”グラビア進出”によって希薄になりつつあり、それに対抗して”若手グラビアアイドル”の吉木りさが”グラビア界”で孤軍奮闘している状況で、今や”写真週刊誌”の多くはAKBと吉木りさの両者で成り立っているといっても過言ではない状況になっています。

そんな中、一人”犠牲者”が生まれてしまいました(哀) ”大家族貧乏アイドル”という触れ込みで”バラエティー番組”を中心に活躍していた上原美優(24)が、今月12日、自宅マンションで首を吊って自殺していたのを交際していた男性によって発見されました。”遺書”は見つかっておらず、床に”殴り書き”のようなものがあった、と発見者の男性が証言しているとの事。もっとも、彼女の自殺の原因は未だ持って分かりませんが、昨年3月に最愛の母が”心筋梗塞”によって他界した事で”後ろ盾”を失った事は確かなようで、後は”将来の不安”や”恋愛のもつれ”もあるのではないか?と言われています(僕的には”交際中の男性”による”自殺”に見せかけた”殺害”、というのも考えられると思うが・・・)。

しかし、やはり”将来への不安”というのが一番大きいような気はします。”恋愛のもつれ”があったとしても、そこには”将来への不安”も当然リンクしていたと思いますし、今の”芸能界”ひいては”アイドル界”の現状を考えれば、彼女が自殺したくなるのもわからないではないです。

とは言え、どこの世界でも”弱肉強食”の”競争社会”ひいては”階級社会”によって成り立っているのは事実ですし、その中で必死で頑張るか、あるいは”第2の人生”を歩むかしかないと思います。しかし、”貧乏暮し”で中学時代に”いじめ”を受け、そこから這い上がってきた上原美優にとって、AKB48はあまりにも”高く厚き壁”に成り過ぎてしまったのではないでしょうか。もっとも、AKBのメンバーだって”下積み時代”があって、毎日秋葉原で”ライブ”を重ねてきてそこから這い上がっています。でも、その”バック”にはかつて”おニャン子クラブ”を手掛けた秋元康が控えています。しかも、AKBはおニャン子のような”事実上素人集団”ではなく”完成された美少女アイドルグループ”です。僕は、決してAKBが嫌いな訳ではありませんが、今のAKBの勢力は”絶頂期の織田信長”のような”戦慄”すらも感じられるのです。”音楽部門”でも”頂点”に立ち、やがて”グラビア界”へ進出して、ついには”バラエティー番組”にも進出して、更なる”勢力拡大”を計っています。となれば、それまでその領域で活躍していたアイドルの”行き場”が無くなってしまうのも事実です。

実は、上原美優の”自殺報道”がされる前日、ふとネットのサーバーを開いた時に、”ニュース”の欄に「さしこ、「AKBは2年後には終わってる」発言」という記事が目に入り、詳細を見てみると、どうやら毎週火曜日に日本テレビ系列で放送されている「踊る!さんま御殿!」に出演していたAKBのメンバーの”さしこ”こと指原 莉乃が「AKBは2年後には終わってるから、”資格”でも取って芸能界で生きていけなくなった時の事も今から考えておかなきゃ・・・」といった事を言っていたようで、そして、翌日の”上原美優自殺”が指原の発言に妙に”説得力”を持たせているように感じました。「驕る平家は久しからず」という言葉が意味する通り、”栄華”を極めたものは必ず”転落”します。まぁ、ある程度程々の活躍ならまだしも、今のAKBの活躍は少々”危険性”をはらんでいるように思えます。彼女達が”ビッグ”になればなるほどその”煽り”を食らうタレントも出てきます。まだ、”他のタレント”ならともかく、いずれ”身内”の中でもやがて”いさかい”は起こってくるでしょう。そして、今度は”AKBメンバー”の中から”自殺者”が現れたら、その時は本当にAKBは終わるかもしれません。

で、変な”誤解”を抱かれると困るので、言っておきますが、僕は決してAKBが嫌いな訳ではありませんし、上原美優の”自殺”の原因がAKBのせいだと言っている訳ではありません。問題なのは、”事務所”や”メディア”の芸能人の”扱い方”に問題がある訳であって、今のAKBの扱い方は正直”異常”極まりないと思います。このような事は今に始まった事ではありませんが、AKBの場合はあまりにも”大所帯”な訳ですから、そこの所をもう少しマスコミは注意を払う必要があるのではないでしょうか。

話を上原美優に戻しますが、まだまだ”この世”に未練が多々あるでしょうけど、ご冥福をお祈りします(合掌)

上原美優・・・本名:藤崎 睦美、1987年5月2日鹿児島県種子島出身、享年24歳。 [”アイドル戦国時代”の裏側で・・・ -上原美優自殺-]の続きを読む
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  1. 2011/05/15(日) 15:45:56|
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岐阜・愛知への旅(3日目)

3日目の5月4日、AM8:30頃にホテルをチェックアウトすると、岡崎まで向かいました。犬山駅から名鉄線に乗って名古屋を経て東岡崎へ到着するのに約1時間。駅をでると徳川家康の最初の居城・岡崎城へ向かったのですが、やはりそこからも15分近く歩きました(疲) しかも、それまでの城と違って、”家康最初の居城”ですから、規模が全然違います(汗) 城内に入って天守へ行くまでにも少々時間がかかります。更に、こちらの城も”家康の館”という別館がセットになっていましたので、時間を気にしながらもそちらも見る事にしました。

”天守”は3層3階の”複合連結式望楼型”の”安土・桃山様式”で、内部は”鉄筋コンクリート製”の”展示室”になっていました。大分、急いで城内を見た後、”家康の館”へ入りました。徳川家康をはじめ、”徳川四天王”の本多忠勝や榊原康政等の武器・甲冑等が展示されていました。
岡崎城:1452または1455年(享徳元年または康正元年)、龍頭山の砦として三河国守護・仁木氏の守護代である西郷稠頼・頼嗣父子によって築城され、1531年(享禄4年)、三河国の豪族・松平清康(徳川家康の祖父)が西郷信貞から岡崎城を奪い城主となる。しかし、その後清康は家臣の謀反によって殺害され(森山崩れ)、その後継者・松平広忠(家康の父)も1549年(天文18年)、家臣の謀反によって殺害、嫡子の竹千代(後の家康)は今川義元の”人質”となって、三河国は今川氏の”属国”となる。1560年(永禄3年)”桶狭間の戦い”において義元が織田信長に打ち取られると、松平元康(当時)はすぐさま岡崎城を奪還し正式に岡崎城主となり、名を”徳川家康”と改める。1570年(元亀元年)家康は浜松に居城を移し、岡崎城を嫡子・信康に譲る。しかし、”長篠の戦い”において信康と生母であり家康の正室であった築山殿が織田信長に”武田への内通”を疑われ、”死”に追いやられると、石川数正、本多重次(作左衛門)が”城代”を務め、”豊臣政権時代”に家康が関東へ転封になると、豊臣家家臣・田中吉政が城主となり、この時に城の大幅な”改修”が行われ現在の城郭の原型になる。1602年(慶長7年)、家康が”征夷大将軍”となり”江戸幕府”を開くと、徳川家譜代家臣の本多康重が城主となり、その後同じ徳川譜代の水野氏、本多(忠勝系)氏が城主となり明治維新まで続く。

岡崎城






岡崎城

徳川家康像








徳川家康像

結構規模の大きい岡崎城を後にすると、”昼食”も取れないまま名古屋へと向かいました。名古屋で地下鉄に乗り換えて”名城公園”で降りて名古屋城に向かったのですが、ここでちょっとした”手違い”があり、実は”名古屋城”は”名城公園駅”の一つ手前の”市役所前駅”で降りなければならなかったため、そこから名古屋城へ向かうのにもかなり時間がかかってしまいました(泣) でもって、”徳川御三家・尾張徳川家”の居城だった名古屋城は更に規模が大きく、”正門”から天守へ向かうにも5分以上はかかったと思います。さすがに、”昼食”もとっておらず”空腹”だったため、こちらは”天守”のみを見る事にしました。”外観”は5層6階の”連結式層塔型天守”といった典型的な”江戸様式”で、”内部”は”鉄筋コンクリート製”の”展示室”となっており、織田家、尾張徳川家を中心とした展示物が公開されていました。
名古屋城:16世紀前半の今川氏親が尾張侵攻の目的で築いたとされる”柳の丸”が起源とされ、現在の名古屋城二の丸の辺りにあったと考えられ、1532年(天文元年)、織田信秀(信長の父)が今川氏豊から奪取し”那古野城”と改名。そして、織田信長はこの城で誕生したといわれ、その後、信秀は古渡城へ移り、信長が那古野城主となるも、1555年(弘治元年)信長が織田本家(守護代家)を滅ぼし、清州城へ居城を移したため”廃城”となる。されど、徳川家康が”江戸幕府”を開いて以降は、”政治情勢”や”地形”に問題があった清洲から名古屋へ尾張の”拠点”を移し、1609年(慶長14年)、家康は九男・義直の居城としてこの地に改めて”名古屋城”を築城。以降、”尾張徳川家”の居城として明治維新まで続く。

名古屋城






名古屋城

名古屋城を出ると、一目散で地下鉄に乗って名古屋駅に向かい、名古屋駅に着くと、駅の外へ出てそこの”血かレストラン街”で探し求めていた”味噌煮込みうどん”の老舗「山本屋」を発見。時間はPM3:00をまわっていたのですが、少し並んだ後に、”遅すぎる昼食”を食べました。”麺”は通常のうどんよりも固く、味噌仕立ての”つゆ”は濃厚で、それを半熟になった生卵と混ぜて食べるとそれが絶妙にうまい! やはり、”味噌煮込みうどん”は本場で食べるのが一番ですね。

今年の”ゴールデンウィーク”の”城廻り”の旅は、正直去年の”彦根~安土~関ヶ原”よりもキツかったです(疲) しょっぱなの”掛川駅不審人物事件”による大幅な遅れがあり、”移動距離”も結構あったし、ここまで本格的な”城廻り”は思ったよりしんどかった、という事を痛感しました。今後は”山城廻り”にも本格的に挑戦したいですね。 [岐阜・愛知への旅(3日目)]の続きを読む
  1. 2011/05/15(日) 14:01:42|
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岐阜・愛知への旅(2日目)

2日目、AM9:00前にホテルをチェックアウトすると、名鉄岐阜駅から犬山方面へ向かいました。約20分程で犬山遊園駅に到着。僕が持っていた”ガイドブック”がかなり古いものだったため、それには犬山遊園駅からモンキーパークまで通っている”モノレール”が載っているのですが、そんなものとっくに”廃線”になっていたようで、仕方なく「犬山モンキーセンター」まで歩いて行く事にしました。

20分程歩いてようやく到着するも、早くも切符売り場が”長蛇の列”になっていました(汗) 隣接する「犬山モンキーパーク」という遊園地の方もかなりの列を作っていましたが、これはこの後行く事になる”犬山城”も含めて、どうやら去年行った彦根同様ロンブー敦がテレビで紹介した影響のようです(驚) 園内は、”アフリカ館”、”中南米館”、”アジア館”、”類人猿館”等に分かれていて、世界各国の珍しいサルが公開されていました。ただ、ほとんどが”檻”の中で公開されていたためちょっと物足りなさも感じましたが、唯一ワオキツネザルが広い敷地で放し飼い近い状態で公開されていて、一見サルとはかけ離れた容貌でありながら、その行動やしぐさを見ると「やはりサルなんだな。」と実感しました。

犬山モンキーセンターのワオキツネザル






犬山モンキーセンターのワオキツネザル

犬山モンキーセンターを出て、犬山城方面へ向かう途中にあった”とんかつ屋”で昼食をとる事にしました。まぁ、定番通り”味噌カツ”でも良かったのですが、メニューの中に”豚テキ定食御膳”というものがあり、それが普通の豚テキではなく大ぶりで厚みがあり、端部を残して切れ込みがあるためにまるで”野球のグローブ”のようでした。で、この”豚テキ定食御膳”を注文。すると、出てきたのは予想以上に大ぶりの豚テキに、その下にキャベツが山盛りに盛られていて、更にそれとは別の器にキャベツが山盛りに盛られていました。更に付け合せのおしんこも量が多いです。「いくらなんでも、こんなにキャベツいらねぇよ。」と思いましたが、やはり器の方のキャベツは残しました(苦)

そして、とんかつ屋から15分程歩くと犬山城が見えてきました。その付近にある三光稲荷神社を通り抜けていよいよ犬山城に到着。しかし、「犬山モンキーセンター」があれだけの行列を作っていたため、不安が過ったのですが、その不安が的中。”天守”の前には長蛇の列が・・・(汗) やはり、”テレビ”の影響は強すぎる! 案の定”約一時間”並ぶ事になりました(疲) 約一時間が過ぎた所でやっと入城! ロンブー敦の影響もさる事ながら”国宝指定”の城ですから、場内も当時の状態のまま保存されており、外観もやはり”安土・桃山様式”の”3層4階複合式望楼型”の城で、良い味わいを醸し出す城ですね。ちょっと前まで”私有の城”だった事もあって、この城が人気が出るのも無理ないかもしれません。
犬山城:1469年(文明元年)、織田広近が砦を築いたのが始まりで、信長の叔父で、あの山内一豊の父・盛豊の主君であった織田信康が居城を木ノ下城から犬山城に移し現在の城郭の原型を造る。その後1564年、織田信長に攻め取られ、池田恒興、織田勝長(信長5男とされる)らが城主となり、”本能寺の変”後、信長次男・織田信雄配下の中川定成が城主となるも、1584年(天正12年)元城主・池田恒興に攻め取られ、後の”小牧・長久手の戦い”のきっかけの一つとなる。”小牧・長久手の戦い”で池田恒興が戦死すると、織田信雄が城主となり、その後三好吉房(豊臣秀次の実父とされる人物)などが城主を務める。その後、石川清貞、小笠原吉次、平岩親吉らが城主となり、1623年(元和6年)平岩親吉没後6年間の”城主空位”を経て尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、以降”明治維新”まで成瀬氏が城主となる。

犬山城








犬山城

天守を出た後、その近くにある”犬山市文化資料館”に入り、そして去年行った彦根城下の”彦根キャッスルロード”のように、犬山城にも観光客用の”城下町”が整備されていて、あまり時間もなかったので一応そこをザーッと見ながらホテルへ向かったのですが、”チェックイン”後再び”城下町”へ赴くと、時すでに遅し。犬山城閉館とともにこちらの店も閉店していました(寂) まぁ、犬山近辺の”旅行客”が急増したのはここ最近だと思いますので、市の”行政”がそこまで手が回らなかったのでしょうけど、この城下町が閉まってしまうと、”飲食店”がガラッと減ってしまう程犬山市はまだ”発展途上”の段階にあります。おかげで、夕食は仕方なく「魚民」で食べる事にしたのですが、そこが”超満員”(苦笑) もう少し、犬山市、ひいては愛知県がこういった現状を考えて欲しいですね。 せっかく”城下町”まで作ったのだから、”夜”の方もちゃんと考えてもらわないと困ります!

犬山城下町






犬山城下町

まぁ、犬山で”全国チェーン居酒屋”の「魚民」で夕食をとるとは思いませんでしたが、意外と馬鹿に出来なかったですね。特に、”サワー類”なんて結構凝っていて、”ゼリー入りサワー”や”いちご”や”キウイ”の”生絞りサワー”もありました。おかげで、ちょっと飲み過ぎて体壊してしまいました(汗) [岐阜・愛知への旅(2日目)]の続きを読む
  1. 2011/05/08(日) 15:16:03|
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岐阜~愛知への旅(1日目)

5月2日から2泊3日で岐阜~愛知方面へ旅行へ行ってきました。1日目、新横浜からAM9:00頃の新幹線に乗って、名古屋へ向かったのですが、途中静岡で新幹線は停車(汗) 「この新幹線、”のぞみ”なのに静岡に停まるのか?」という疑問に駆られると、「只今、掛川駅におきまして、不審者が線路内へし侵入したため安全確認のため運転を見合わせます。」という”場内アナウンス”が入り、「こっちは予定が詰まってるんだから早く動け!」と心の中で叫んだものの、約30分間静岡に停車(泣) ようやく走ったのも束の間、掛川の少し手前で再び停車(冷汗) 「只今、掛川駅におきまして、不審者が線路内へし侵入したため安全確認のため運転を見合わせます。」というアナウンスが再び入り、約10分間停止(愕然) 結局、約40分間到着が遅れてしまいました(怒) この”不審者”が何をしたかったのかは今もって”不明”なのですが、”ゴールデンウィーク”になると必ず頭のおかしい奴が出てくるから困る! もっとも、”新幹線ジャック”や”爆弾テロ”出なかっただけでも一安心ですけどね。

名古屋駅に到着すると、かなり慌てて昼食をとる事に。とりあえず、時間もないので地下飲食店街にあるひつまぶしの店へ入り、ひつまぶしを注文。”値段”の割には少々物足りなさも感じましたが、贅沢を言っている暇などありません。食後、すぐ名鉄本線へ乗って新清洲へ向かいました。新清洲駅に到着後、そこから徒歩約15分ご清洲上に到着。しかし、現在の”戦国ブーム”や経済的事情による”町おこし”の関係上、多くの城は”天守”のみならず、別の”展示室”を設けてそれとチケットを”セット売り”しているのが普通になっているようです。”新幹線の遅れ”のために予定が大幅に狂ってしまったのですが、仕方なく”お江の館”とセットのチケットを購入。

清州城






清洲城

この城は、平成元年(1989年)に清洲町の町制100周年を記念して復元されたもので、城内は”展示室”になっており、織田氏を中心とした展示物が公開され、また、床が”板張り”になっていたのが良い感じでしたね。”外観”は、”黒板張り”の3層4階の”望楼型天守(最上階が他の階と構造の違う造りのもの)”といった”安土・桃山様式”で、中々格好良いたたずまいでした。
清洲城:応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。その後、”尾張守護代”織田家の居城となり、一時信長の父・織田信秀が”清須奉行”として入城した後、尾張守護代最後の当主・織田信友が入城するも、弘治元年(1555年)分家である織田信長によって追放、殺害され、以降”美濃攻略”まで信長の居城となる。信長が岐阜城に移転後は、番城(城代管理の城)となる。信長が”本能寺の変”で討たれた後、家臣の羽柴(のちの豊臣)秀吉、柴田勝家を中心とした後継者を決める”清須会議”が執り行われ、その後信長次男の信雄が入城。その後、秀吉の甥・豊臣秀次が引き継いだ後、秀吉子飼の猛将・福島正則の居城となる。秀吉死後、慶長5年(1600年)、”関ヶ原の戦い”後、”東軍側”についた福島正則は戦功によって安芸広島に転封となり、代って家康四男・松平忠吉が城主となり、彼の死後家康九男義直が入城するも、拠点を名古屋へ移転したため、慶長18年(1613年)名古屋城完成とともに廃城。

天守を出た後、大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」に関する展示がされている”江の館”へ入り、少し休憩をしてから、城を出て新清洲駅へ向かおうとしたのですが、出た直ぐの所に”信長像”の看板が目に入り、そちらに立ち寄ってから駅へ向かいました。

織田信長像








織田信長像

名鉄本線・新清洲駅から終点の名鉄岐阜駅へ向かい、約30分後に到着。そこから、バスで10分ほど行った所に岐阜公園があり、その中にある”ロープウェイ乗り場”からロープウェイに乗って”金華山山頂”へ到着。そこから少し山道を歩いて岐阜城に到着。まさに”難攻不落”と言われた通り、山の斜面もかなり急で、天守も結構”がっけぷち”の所に建っていて結構スリリングでした(汗) こちらの天守も明治43年(1910年)に一度復元され、昭和18年(1943年)に焼失するも、昭和31年(1956年)”鉄筋コンクリート”で再建。城内は”展示室”になっており、斎藤氏、織田氏を中心とした展示物が公開されていました。 また、”難攻不落の山城”だけあって、最上階からの眺めは最高でした(この日は少々モヤが掛かっていましたが(汗))。

岐阜城






岐阜城

岐阜城から見た光景






岐阜城から見た光景

岐阜城:1201年(建仁元年)に二階堂行政が稲葉山(現金華山)に砦を築いたのが始まりで、一度”廃城”になるも、15世紀の中頃、美濃守護代・斎藤利永によって修復。その後、1525年、斎藤利永の家臣、長井長広と長井新左衛門尉(斎藤道三の実父とされる人物)が謀反を起こし稲葉山城を攻撃し、長井長広が城主となるも、長井新左衛門尉、新九郎(後の斎藤道三)父子によって長広が殺害され(諸説あり)、更に新左衛門尉死後、1533年(天文2年)嫡子の新九郎が城主となり、1539年(天文8年)守護代となり斎藤利政と改名して城を改築。2年後の1541年に美濃守護・土岐頼芸を追放し美濃を支配。1554年、家督を嫡子・義龍(土岐頼芸の隠し子という説があり)に譲り、剃髪して道三と名乗る。しかし、2年後の1556年、斎藤道三は”長良川の戦い”にて嫡子・義龍によって討ち死に。その後、1561年、義龍急死によってその子龍興が城主になるも、やがて家臣たちの造反を生み、安藤伊賀守守就と竹中半兵衛重治によって城主・斎藤龍興は追放され、この2名及び稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)と内応した織田信長が、1567年稲葉山城を攻略し、拠点を尾張・清須城(清州城)から稲葉山城に移し、中国の故事(周王朝の文王が岐山によって天下を平定した事)にならって岐阜城と名を改める。1576年、信長は近江の安土に拠点を移し、岐阜城を嫡子・信忠に譲る。1582年、”本能寺の変”によって信長・信忠父子は討ち死に。その後、”山崎の戦い”、”賤ヶ岳の戦い”を経て羽柴(豊臣)秀吉に味方した池田恒興の嫡男・元助が1583年に城主となるも、翌年に起こった”小牧・長久手の戦い”で父・恒興とともに戦死したため、弟・輝政が城主となる。1591年、池田輝政転封のため、秀吉の甥・羽柴秀勝が城主となり、翌1592年、”朝鮮出兵”により命を落とした秀勝に代わって、信長の嫡孫・織田秀信が城主となるも、1600年の”関ヶ原の役”にて”西軍”に付いたため、高野山へ追放され、1601年、徳川家康によって”廃城”が決定する。

岐阜城のある金華山の山麓には、通常信長が暮らしていたとされる”館”があり、そこには金閣寺をも凌ぐ程の煌びやかな三層の建造物が立っていたようです。この事から、かつては岐阜城が”日本最初の天守”があった、という説がありましたが、信長の頃にはまだ無かった、という事になるでしょう(もっとも、当時あんな高い所に天守を築くなんていくら信長でも無理でしょう)。

岐阜城信長館跡






信長館跡

岐阜城を見終えて、ロープウェイを降りた後は、公園内にある「名和昆虫博物館」に入りました。岐阜で発見された”ギフチョウ”をはじめ、世界の珍しい昆虫の標本が感ず多く展示されていました。

岐阜公園を出ると、バスで岐阜駅へ向かい、ホテルでチェックインして、再び夕食をとるために街へ出、名鉄岐阜駅付近の居酒屋に入り、”飛騨牛棒葉味噌”、”鶏ちゃん”等を食べ、その居酒屋を出た後も、何か物足りずに”ステーキ屋”に入りステーキを軽く食べてからホテルへ戻りました。 [岐阜~愛知への旅(1日目)]の続きを読む
  1. 2011/05/07(土) 22:18:09|
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8.27、「3大プロレス団体チャリティー興業」開催!

大分久しぶりに”プロレスネタ”を書きます。どうも、ここ最近のプロレスは”TV中継”もめっきり減ったし、これといった大きな”話題”もあまりなかったため、正直”ネタ”に困っていたのですが、今回の”大震災”を復興する、という目的で、今月18日、新日本プロレス、全日本プロレス、NOAHの”プロレス3大団体”による”チャリティー興業”を8月27日に日本武道館にて開催する事を発表しました。(この記事を書くのも、ちょっと遅すぎますが(汗))。

今、正直”日本プロレス界”はそれほど”元気”があるとは思えません。そして、”震災”の影響で東北をはじめ日本中が”元気”をなくしてしまっている状況です。しかし、こうした状況を一気に盛り返さなければなりません。ここに、久しぶりの”プロレスオールスター戦”という形式での”チャリティー興業”はアリだと思います。僕も、ここ数年プロレスの試合を見に行っていませんので、久々に観に行きたくなりましたし、震災翌日に予定されていた”アイアン・メイデン来日公演”も流れてしまったため、絶対に行こうと思います!

まぁ、その前に、機会があればちょくちょく試合を見に行こうかとは考えています。それも”ビッグマッチ”というよりも関東近郊(神奈川、埼玉等)での小さい興業も行ってみたいですね。前々から考えてはいたんですが、どうしても”ビッグマッチ”じゃないと・・・という思いが強かったため、結局行けずじまいだったのですが、今後こういった”小さい興業”も含めて観戦しようと考えています。特に、「週プロ」を読む限り今全日が結構盛り上がっているようなので、久しぶりに全日を観に行きたいですね。

このような”逆境”を乗り越えて、”プロレス界”、そして”日本”が復興できるよう、僕自身も出来る限りの事をしたいと思います!

新日公式サイト参照 [8.27、「3大プロレス団体チャリティー興業」開催!]の続きを読む
  1. 2011/05/01(日) 11:21:15|
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スーパーpsy野神

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