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”余裕”の亀田と”焦り”の内藤 -ボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ-

昨日、”因縁”の内藤大助VS亀田興毅による”WBC世界フライ級タイトルマッチ”が行われました。さかのぼる事2年前、”WBC世界フライ級王者”内藤大助が亀田兄弟を”挑戦者”に指名し、次男・大毅が挑戦する事になりましたが、その時の”王者”内藤は終始至って冷静。一方の大毅の方が少々興奮気味でした。そして、試合が始まれば大毅の”粗さ”が露呈し、キレた大毅が内藤を投げ飛ばすという”反則行為”をしたために内藤がベルトを防衛。その後、亀田兄弟は長期間の”試合停止処分”を受け、やがて所属していた”共栄ジム”を除名され、父の史郎氏も”トレーナー”の免許を剥奪。まさに”天国と地獄”を一気に味わう事になりました。

あれから2年が経ち、今度は兄・興毅が内藤に挑戦する事になりました。ところが、2年前と違って、今度は”調印式”の時から”冷静”だったのは興毅の方。一方の”王者”内藤の方がなんか焦っていた、というか落ち着きの無さを何となく感じました。そして、試合が近づくにつれて内藤は次第に”興奮状態”を隠せなくなり、一方の亀田は至って冷静。試合前の”インタビュー”で「今回の試合の秘策は?」と聞かれた内藤は、”逆ギレ”して「そんな事ここで言わなきゃいけねぇのか!? なんでそんな事言わなきゃいけねぇんだ!」とえらい興奮気味。一方の亀田は、同じインタビューに「俺は、俺の戦い方しか出来へんからなぁ。」とやはり冷静。この時点で、もはや”勝敗”は決まっていたように感じました。

そして、両者がリングに入場する際にも”チャンピオン”内藤はやはり”興奮”を隠しきれない感じでしたが、一方の亀田はここでも”余裕”の表情。もはや、どっちが”チャンピオン”何だかわからなくなりました。”国家斉唱”が終わり、”試合開始”のゴングが鳴ると、やはり強引に攻めかかって行ったのは内藤の方。亀田はそれを冷静に見ながら的確に”左ストレート”を入れ、それを何発か入れた時に内藤の鼻から”鼻血”が流れてきました。内藤は次第に息を荒げ、動きが乱れるも、亀田は一貫して安定していました。中々スピーディーで”ハイレベル”な試合でしたが、両者とも”当り”がイマイチで、時間が経過するにつれ何か”物足りなさ”も感じましたが、途中激しい”打ち合い”をする場面がありました。そこでも的確に”パンチ”を入れていたのは亀田の方。それから、両者とも大きな”ヒット”を出せないまま”12ラウンド”が終了。”3-0”で亀田興毅の”判定勝ち”となり、亀田が”新WBC世界フライ級王者”となり、念願の”2階級制覇”を果たしました。

一度周囲から持ち上げられ、そして一気に見放された人間が受けた”屈辱”は計り知れません。そこから這い上がってこそ、本物の”英雄”になるのではないでしょうか。これで、亀田興毅も本当の”英雄”になれた・・・のかな?(笑)ただ、現在”WBC暫定王者”であるポンサクレック・ウォンジョンカムとの”防衛戦”が求められているようですが、相当の”強敵”との事。コイツを倒さなきゃまだ”真の英雄”とは言えないのでしょうね。 [”余裕”の亀田と”焦り”の内藤 -ボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ-]の続きを読む
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  1. 2009/11/30(月) 22:43:13|
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伊那・高遠への旅②

二日目、朝食のバイキングを食べた後、8時半頃チェックアウトして伊那駅へ向かい、バスで再び高遠へ向かいました。今度は”温泉”に入る事が目的で高遠へ行きました。高遠駅へ到着した後、「高遠さくらの湯」という温泉施設へ向かったのですが、時間が少し早かったため、近くにある”蓮華寺”へ行く事にしました。”蓮華寺”という寺は、あの絵島の墓がある寺です。絵島は配流後”出家”し”日蓮宗”へ帰依したようですが、”蓮華寺”の名が示すようにこの寺は日蓮宗の寺です。しかし、前日のバス乗り遅れの”トラウマ”に加えて”便意”も催していたため、”絵島の墓”には寄らずにすぐに寺を後にし、「さくらの湯」の第二駐車場内にあるトイレへよってから、「さくらの湯」へと向かいました。

浴室の中へ入ると、”内湯”と”露天風呂”があり、”内湯”は通常の風呂の他に”ジャグジー風呂”がありました。”泉質”は”アルカリ単純泉”という事なのですが、正直な感想は「ただのお湯?」と思わせるぐらいの”無色無臭”で、浴槽やお湯の排出口が変色していなかった所を考えるとちょっと”怪しさ”を感じました。最近この手の温泉は少なくないですからね。まぁ、”雰囲気”さえ味わえればそれでよかったのかもしれませんが、少々物足りなかったのは否めません。

昼前のバスに乗って伊那に戻り、昼食を取ろうと思ったのですが、”日曜日”だった事と、やはり潰れた店が多いせいか、ほとんどの店が閉まっていたので、とりあえずお土産やでお土産を買い、本数の少ない飯田線に電車がある内に乗って岡谷へ向かったのですが、こんな時に限って今度はただでさえ本数が少ないのに”故障”か何かで電車が15~20分程遅れる有様(汗) しかも、電車が発車しても”ノロノロ運転”で正直イライラしました。本当に”踏んだり蹴ったり”です(悲) 

岡谷駅に到着するや、すぐに駅を降りて”食べる所”を探し、デパートの中に”大衆レストラン”があったのでそこへ入り、伊那地方の名物の一つ”ソースカツ丼”を食べる事にしました。”大衆レストラン”ですが、味は中々で、肉もそこそこ美味しかったし、ソースもいい感じの甘さで美味しかったです(値段は少し高かったが(汗))。けど、まぁ、”ローメン”と”ソースカツ丼”の二大名物を食べられただけでも本望と言うべきではないでしょうか。

しかし、このまま帰る訳には行きません。まだ、時間には余裕があります。で、実は”高遠”と因縁深い地が近くにあります。”諏訪”です! 以前から、上諏訪駅の近くにある諏訪氏の居城”高島城”には行ってみたかったのですが、せっかくの機会なので行く事にしました。本当は、高遠城同様”桜の時期”がいいようですがね。高遠氏は諏訪氏の一族で、諏訪大社の”大祝(おおほうり:諏訪大社の神官の最高位で、いわゆる”現人神”と同等の位の神官)”の座を常に狙っており、そこを隣国・甲斐の武田晴信(信玄)に見抜かれて、それによって晴信が諏訪に侵攻し、諏訪宗家は滅亡してしまいます。そういう意味では、この城へ行く必要がある、と思いました。

城の作りは比較的”簡素”で、規模もそれ程大きくないですが、中々立派な城でした。最近は、所謂”白塗り”の城より、”板張り”の城の方に魅力を感じてしまっているので。城の中は、大抵の城と同様”資料館”になっており、諏訪氏の歴史、諏訪大社の歴史、諏訪を領した武将の歴史の記述が展示され、また、諏訪出身の松尾芭蕉の弟子・河合曾良に関する記述も展示されておりました。あとは、通常はその城に関連する遺物・遺品等が展示されていますが、ここでは諏訪市民が所有していた諏訪にまつわる遺品が展示されていました。”1階”が主に”記述”と”写真”、”2階”が”展示物”、”3階”が”展望フロア”とやはり他の城に比べれば小規模ですが、そこから見る”諏訪湖”は中々の絶景でした。

高島城・・・諏訪氏一族の諏訪頼忠が家康の臣下に下り、家康の関東転封に伴い武蔵国に移った後、諏訪の領主となった豊臣秀吉の家臣・日根野高吉によって1592~98にかけて築かれた平城。”関が原の合戦”後、徳川家康が”征夷大将軍”に任ぜられると、家康の意向により頼忠の嫡男・頼水が城主となり、以降”明治維新”まで諏訪氏の居城となる。かつては、諏訪湖畔に面して建っていた事から”諏訪の浮き城”と呼ばれた。

高島城小








高島城天守

高島城から見た諏訪湖






高島城から見た諏訪湖

この城は、小さいながらも敷地内には立派な”庭園”があり、しかも”諏訪護国神社”という神社までありました。

高島城庭園






高島城の庭園

諏訪護国神社






諏訪護国神社

”高島城”を後にすると、本当は上諏訪駅構内にある”足湯”に入りたかったのですが、時間の都合上却下し、またまた”お土産”を買って、”特急あずさ”に乗って家路に着きました。 [伊那・高遠への旅②]の続きを読む
  1. 2009/11/23(月) 17:57:17|
  2. 旅日記|
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伊那・高遠への旅①

何だか今年は”連休”が多すぎる気がします(汗) でも、まぁ、時期的にもちょうど”紅葉”の真っ盛りな時期ですので、一昨日、昨日と1泊2日で伊那・高遠へ行ってまいりました。

伊那は以前日帰りで二度行った事があり、高遠は一度伊那へ行ったついでに日帰りで行った事があるのですが、少し時間が足りなかったため、今度は泊まりで行きたいと思っていましたので、今回実行した次第です。

伊那は事実上伊那名物”ローメン”を食べるのが目的で行ったようなもんなので、”観光”の方は高遠を中心に周り、”宿泊”の方は伊那に泊まるという形にしました。一日目(21日)の11時半頃に伊那に到着したのですが、そこでまず、飯田線沿いに川の袂まで歩いた辺りにある「萬里」という中華料理店で、伊那名物”ローメン”を食べる事にしました。その”ローメン”ですが、簡単に言ってしまえば、”羊肉”を使った”汁あり焼きそば”という所ですか。”麺”は太い蒸し麺を使い、羊肉や野菜を中華風の出し汁で炒め、スープごと麺の上にかけた物なのですが、それで終わりではなく、その後に各自で麺の上から”ウスターソース”、”酢”、”おろしにんにく”、”ごま油”、”一味とうがらし”等を好みでかけて食べる、というまるで”油そば”のような代物です(笑) 僕は学生時代、”油そば”を食べて育ったと言っても過言ではありませんので、それに近い”ローメン”に魅力を感じるのも当然なのだと思います。でも、”油そば”のように油っぽくなくむしろあっさりしているので、”羊臭さ”を気にしなければ、意外と食べやすい食べ物ではないでしょうか。(ちなみに下の写真は自分で撮った写真ではございません(誤))

ローメン






ローメン

昼食を済ませた後、すぐに伊那駅からバスへ乗って高遠へ向かいました。約25分程で高遠駅(電車の駅ではございません。ちょっとした”バスターミナル”のようなもの。)へ到着。更にそこから徒歩約20~25分程で高遠城址本丸跡へ到着。で、やはり11月後半ですから、”紅葉”を通り過ぎて枯れちゃった木が結構ありましたが、まだまだ紅葉は残っている状態です。周囲の山々にもまばらな感じで赤茶色く色づいていました。現在、高遠城址は”石垣”を残すのみで建造物は明治維新後の”廃城令”によって全て取り壊されてしまい、その代わりに”桜”の木々を植えた事で現在は”桜の名所”として有名ですが、”紅葉”も中々だと思います。(以下の写真は僕が撮った写真です。)

高遠城・・・戦国時代、諏訪氏一族の高遠頼継の居城として築城され、後に武田信玄の支配下となり、信玄の四男・勝頼が城主となり、信玄の嫡男・信義が”謀反”を起こして幽閉された後自害すると、勝頼は信玄の”後継者”として甲府に移ったため、代わりに信玄の実弟・信廉が入城。更に、信玄の五男で勝頼の実弟・仁科盛信が城主となるも織田信長の侵攻を受け、1582年、信長の嫡男・信忠によって落城し、武田氏は滅亡。そして、その直後、信長が”本能寺の変”に倒れると、木曾の豪族・木曾義昌の支配下となり、その木曾義昌を追放した徳川家康の配下に。家康が関東に”国替え”をされると京極氏、保科氏の居城となり、江戸時代に入ると、徳川二代将軍秀忠の三男で保科正光の養子となった保科正之が会津へ移り”会津松平氏”の祖となると、鳥居氏を経て1691年、内藤清枚が高遠藩の藩主となると、以降内藤氏の居城となり”明治維新”まで至る。

高遠城






高遠城祉

高遠城・太鼓櫓小








太鼓櫓

高遠城・紅葉






高遠城の紅葉

高遠城の南門を出て、そこから徒歩10分程の所に「高遠町郷土館」があり、そこに隣接してあの徳川八代将軍吉宗時代(厳密には七代将軍家継の頃)に大奥・大年寄りであった絵島が、後に幽閉された”絵島囲み屋敷”があります。この”絵島囲み屋敷”を見学するにはまず「高遠町郷土館」を見学しなければならないため、そちらから見学する事にしました。”縄文時代”から”明治維新”までの遺物、文書などの数々の資料が展示され、領主の激しい”変遷”のあった動乱の歴史を感じさせられました。更に、その”動乱”が江戸中期にも別の形で起こっており、それが時の大奥大年寄り・江島が芝居見物に出かけて門限に遅れた事がきっかけで、その役者・生島新五郎との”不倫騒動”までに発展した”絵島生島事件”によって捕らえられ、高遠に”流罪”になったのですが、彼女が幽閉された”江島囲み屋敷”が郷土館の隣にあるのですが、はっきり言って”牢屋”同然ですね。外側の”囲い”の上部には内部から逃げやれないように楔のようなものが交互に取り付けられていて、絵島の部屋の窓側にはしっかり”格子”が取り付けられ、その部屋の周りにはそれを監視する役人の部屋があり、”食事”も一汁一菜、一日2回と大変質素な生活を32歳から61歳まで強いられていたようです(哀) 八代将軍・吉宗の時代になり、”享保の改革”の一環としての”大奥改革”のスケープゴートにされたのは明白。確かに”罪”は”罪”ですが、”改革の犠牲者”として彼女を哀れむ人も多いのでしょうね。

絵島囲み屋敷






絵島囲み屋敷

絵島囲み屋敷・囲い






囲み屋敷の囲い

郷土館を後にすると、そのまま高遠駅へ向かい、バスに乗ろうと思ったのですが、次のバスまで1時間半ぐらいあったので、和菓子屋でお土産を買ってから歩いて伊那まで向かいました。しかし、正直”徒歩”をナメ過ぎていた(汗) バスだと25分程の距離でも、徒歩だと2時間近くもかかるものだとは正直思いませんでした。歩けど歩けど”景色”は変わらず、1時間半ぐらい経ってもまだ伊那には程遠かった為、近くのバス停で待とうかとも考えたのですが、もう少し歩けば辺りも開けてくるだろうと思って歩き続け、途中でコンビニが見えましたので、ちょうどトイレにも行きたかったのでコンビニへ寄る事にしました。そして、コンビニを出てしばらく歩き、バス停まで後ちょっとの所で何とバスに抜かれててしまいました(泣) バスは予想以上に早かったんです(涙) 結局、そこからまた更に歩く事になってしまい、やっと開けた所に出た時には17時45分ぐらいになってしまいました。そこに、別ルートのバスがあったので、何とかバスに乗って伊那駅付近で降り、ホテルへ直行して”チェックイン”しました。
本数の少ないバス(電車)に乗る場合は、変に動かずに何とか時間を潰すべきでしたね(悔)

そして、再び”夕食”を取りに外出しました。しかし、伊那駅周辺は以前から寂れた雰囲気のあるいわゆる”シャッター街”なんですが、更に昨今の”不景気”も関係しているせいか結構潰れた店も多いようで、本来行く予定にしていた店もどうやら潰れていたようでしたので、昼と同じ「萬里」へ行く事にしました。今度は”ローメン”ではなくて、酒のつまみになるような一品料理を頼む事にしました。昼に寄った際に見たメニューで気になっていた料理がいくつかありまして、迷った挙句”マトンの唐揚げ”を頼む事にしました。で、思ったよりも”ボリューム”があり、結局料理はそれ一品だけ頼み、他は、ビール、老酒、そして冒険的に”パイカル”という酒を頼んだのですが大失敗!(汗) ”パイカル”という酒は中国で作られる主に穀物や豆類、根菜類を主原料とした”蒸留酒”なのですが、実は以前このような酒を飲んだ事があるのですが、”匂い”は変に”アルコール臭”が強く、”味”は何か”歯磨き粉”みたいな味がして正直「まずい!」と感じた酒だったんです。この酒を飲んだ後、店を出る事にしたのですが、何かこの日は正直”踏んだり蹴ったり”の一日でした。

(次の章へ続く!)  [伊那・高遠への旅①]の続きを読む
  1. 2009/11/23(月) 10:15:33|
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11.08、中邑VS棚橋戦に何が見えた!?

中邑真輔と棚橋弘至。これまで通算9度シングルで戦い、中邑が”5勝”、棚橋が”3勝”、そして”1分け”と中邑が2勝リードしているものの、”IWGPヘビー級タイトル”の戴冠数及び戴冠期間では棚橋が上、とお互いがしのぎを削っている”良きライバル”であり、現時点では新日本の”二大エース”と言っても過言ではないこの2人。されど、当初は両者とも”フロントサイド”からプッシュされていた感は否めず、”いい試合”はするんですが、本当に観客を沸かせていたのは真壁刀義や後藤洋央紀といったむしろ中邑や棚橋の背中を追いかけながら自力で這い上がってきた選手達でした。しかし、”チャンピオン”になるための”資質”はやはり中邑や棚橋に備わっていた、という”矛盾”を伴いながら両者とも”新世代エース”としての十字架を背負わされてきました。

しかし、今年に入ってから、この両者にも少しづつ何かしらの”変化”が見られるようになったのは事実。まず、中邑が矢野、飯塚ら”旧G.B.H”のメンバーと手を組んで新ユニット”CHAOS”を結成してから、中邑の”ファイトスタイル”に変化が生じ、それによって棚橋も火が点き、棚橋の”ファイトスタイル”も次第に”ダーティー”な要素が見られるようになりました。しかし、それでも観客は真壁や中西辺りを圧倒的に支持していたし、棚橋に至っては”怪我”になかされるわで、今一つ”空回り”しているのは事実。しかし、その棚橋の”ベルト返上”をチャンスとして中邑は、”本年度G1覇者”である真壁に雪辱を晴らし念願の”ベルト奪取”で成功! そして、その光景を指をくわえて見るしかなかった棚橋も、怪我を克服して”ベルト奪取”に命を賭けてきました。

そして、2009年11月8日、両国国技館、両者の”10度目”のシングルマッチの火蓋が切って落とされました。”ゴング”がなった瞬間、”ビンタ合戦”が勃発! まるで、”猪木全盛期”の新日本の試合を見ているような錯覚に囚われました。まさに”ストロングスタイル”でした。これまでの両者の試合は、確かに”いい試合”ではあるんですが、”小奇麗”過ぎる嫌いがあったのは事実。特に棚橋が”ドラゴンスリーパー”を仕掛けた所を、中邑がロープを利用してバック転して外す、というのが一つの”見せ場”になりましたが、今回はそれを棚橋が”ファイナルカット”で叩きつけました。多くの”新日ファン”が求める試合はこういった試合なんですよね。”器用”な中に”シュート”の部分が備わり、”喧嘩さながら”ではあるがちゃんと”プロレス”をしている、というものを。変に”技術”に偏りすぎても困るし、変に”格闘技寄り”になってもつまらない。”本気”の部分を含んだ”プロレス”こそ本来の”新日本スタイル”なんです!

中邑の”打撃”も”ヒール転向”によってますます”説得力”が出てきましたし、棚橋の”技”にも”重み”や”エグみ”が出てきました。そして、元々両者には”スピード”がありましたが、それによって繰り出された”流れるようなプロレス”こそかつて新日マットで見た光景だったと思います。まぁ、少々”粗さ”は感じたものの、出来は中々ではないでしょうか。そして、22分47秒、”ボマイエ”が棚橋の頬辺りを直撃し、”片エビ固め”で中邑が2度目の防衛に成功! 試合後、中邑はマイクを握り「これで暫定王者じゃなくなったでしょ。これが本物のIWGP!」とアピールした後、「一つ指名できるなら、永田裕志!」と永田を”次期挑戦者”に指名しました。思えば、かつて棚橋が中西を指名したように、中邑にとっては永田こそ”第三世代”の中では”天敵”と言っても過言ではない選手です。かつて「G1クライマックス 準決勝戦」において永田の見舞った”雪崩式エクスプロイダー”で肩からマットに叩きつけられ”脱臼”による負傷欠場を余儀なくされた事がありました。それ以外でも、大事な所で永田が立ちはだかっていたのは事実です。そういった意味では、中邑が本当の意味で”新日本エース”になるためには、”永田越え”は決して避けて通れませんからね。

NOHAでは三沢が亡くなり、”田上体制”になってから今一つカードがグダグダしている中、もはや”日本プロレス界の最後の要”は新日本プロレス唯一つになってしまいました。であればこそ、新日本に新たな”ストロングスタイル”を築き上げてほしいですね! [11.08、中邑VS棚橋戦に何が見えた!?]の続きを読む
  1. 2009/11/15(日) 21:08:55|
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スーパーpsy野神

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