コラム・de・ブログ

オールジャンルの”コラム形式”のブログ。

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徹底比較! ”星”になった二人の戦士

今から約4年前の2005年7月11日、”破壊王”橋本真也が”右肩負傷”により長期欠場中、"脳幹出血”により死去。享年40歳。あれから約4年たった今年2009年6月13日、”NOAH創始者”三沢光晴が試合中に斎藤彰俊の”バッグドロップ”を受けた後意識不明となり、”頚髄離断”により死去。享年46歳。”日本プロレス界"において”2本柱”を失う事になりました。ともに、”馬場・猪木世代”、”鶴・龍・長・藤世代”に次ぐ”闘魂三銃士”、”全日四天王”の”中核”として、橋本が猪木の、三沢が馬場の意思を受け継ぎ、そして両者とも”理想のプロレス”を追い求めて”新団体”を設立し、そして粉骨砕身で団体のため、そしてプロレスのために戦い抜き、そして命尽き果て散っていきました。今回、改めてこの両者について徹底検証してみたいと思います。

橋本真也・・・身長:183cm、体重:135kg、スポーツ暦:柔道、得意技:DDT、ジャンピングDDT、フライングニールキック、袈裟斬りチョップ、水面蹴り、三角締め等、獲得タイトル:IWGPヘビー級王座(第14代(防衛4回)、第16代(防衛9回)、第19代(防衛7回))、IWGPタッグ王座(第11代(パートナーはマサ斎藤、防衛3回)、第26代(パートナーは平田淳嗣、防衛6回))、三冠ヘビー級王座(第31代(防衛2回))、NWA世界ヘビー級王座(第93代(防衛2回))、NWAインターコンチネンタルタッグ王座(第4代(パートナーは小川直也、防衛1回)、第10代(パートナーは藤原喜明、防衛3回))、G1クライマックス:第8回優勝、SGタッグリーグ:第2回優勝(パートナーは長州力)、第6回優勝(パートナーはスコット・ノートン)、入門:1984年4月、新日本プロレス、デビュー戦:1984年9月1日、後藤達俊戦、所属団体:新日本プロレス(1984年4月~2000年11月)、ZERO-ONE(2001年3月~2005年11月) 

三沢光晴・・・身長:185cm、体重:118kg、スポーツ暦:レスリング、器械体操、得意技:タイガー・ドライバー、タイガー・ドライバー’91、エメラルド・フロウジョン、変形エメラルド・フロウジョン、エルボー・バット(ローリング・エルボー、ランニング・エルボー等を含む)、フェイスロック等、獲得タイトル:GHCヘビー級王座:初代(防衛1回)、第5代(防衛1回)、第11代(防衛7回)、GHCタッグ王座:第2代(パートナーは小川良成、防衛なし)、第8代(パートナーは小川良成、防衛7回)、三冠ヘビー級王座:第10代(防衛7回)、第14代(防衛4回)、第17代(防衛8回)、第20代(防衛なし)、第23代(防衛2回)、世界タッグ王座:第17代(パートナーは川田利明、防衛1回)、第20代(パートナーは川田利明、防衛なし)、第24代(パートナーは小橋健太、防衛2回)、第25代(パートナーは小橋健太、防衛2回)、第29代(パートナーは秋山準、防衛2回)、第39代(パートナーは小川良成、防衛なし)、アジアタッグ王座:第51代(タイガーマスク時代、パートナーは小橋健太、防衛1回)、第67代(パートナーは小川良成、防衛なし)、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー王座:第17代(防衛1回)、チャンピオン・カーニバル:1995年優勝、1998年優勝、世界最強タッグリーグ戦:1992年優勝(パートナーは川田利明)、1993年優勝(パートナーは小橋健太)、1994年優勝(パートナーは小橋健太)、1995年優勝(パートナーは小橋健太)、入門:1981年3月、全日本プロレス、デビュー戦:1981年8月21日、越中詩郎戦、所属団体:全日本プロレス(1981年3月~2000年6月)

こうして比べると、三沢の方が3年ばかりデビューが早いせいか、”タイトルタイトル獲得数”も多いですね。でも、全日本を離脱した時期は橋本が新日本を離脱した時期と同じ年ですね。しかも、その"要因”が三沢が馬場元子夫人、橋本は直接手を下したのは長州だとしても、その"原因”を作ったのは間違いなく猪木です。結局"両老舗団体”にしがみついている"過去の亡霊(悪霊?)”によって両者とも団体を追われる形になったのは酷似しますね。

”ファイトスタイル”的には、橋本は間違いなく猪木の”闘魂”を継承しており、当時の武藤、蝶野を含めた”闘魂三銃士”の中では最も”ストロングスタイル”のプロレスをしていたのが橋本でした。あの”体格”の割には動きもスピーディーで、体も柔らかく、そしてそれ以上に持ち前の”パワー”を生かした”破壊力”で相手を粉砕。まさに”破壊王”と呼ぶにふさわしいレスラーだったと思います。観客に対して明確に”強さ”をアピールしていたのが橋本であり、そういった部分も猪木から継承したのでしょう。

橋本の強さを”陽”とすれば、一方の三沢の強さは”陰”に表現出来るのではないでしょうか。馬場からプロレスを1から学んだ三沢は、鶴田や天龍同様、どちらかといえば”スロースターター”のプロレスをしていたと思います。いきなり観客の”注目”を浴びるプロレスを展開するのではなく、まずは相手の”動き”を見据え、様子を見ながら慎重に技を出して自分の”ペース”を作る。そして”機”が熟してから一気に”パワー全快”で相手を潰しにかかる。”外見的部分”よりも”中身重視”のプロレスを三沢はしていたのであり、それを馬場から継承したのでしょう。ただ、”外見的ファイトスタイル”はさすがに馬場と同じ、という訳には行かないでしょうから、その部分においては同じ”レスリング出身”の鶴田を意識し、”精神的部分”は天龍を意識し、その”基盤”はあくまでも”馬場プロレス”というのが三沢のスタイルなんだと思います。

”イデオロギー”、”アイデンティティ”においても両者は大きく異なり、橋本は猪木譲りの”無鉄砲さ”というか”一か八か”の勝負をするタイプで、三沢は馬場と同じく決して無謀な勝負には出ないタイプでした。でも、橋本は猪木ほど”打算的”ではなく、むしろ”実直”な性格だった事から、”失敗”が多かったのは確かでしょう。特に”異種格闘技戦”絡みでは。猪木は”政治力”を上手く利用したのに対して、橋本はそれをしなかったが故に結構”負け”が多かったのは事実。トニー・ホームには勝てず、小川直也には4度も敗北。これによって、橋本はファンからの”支持率”を下げてしまったのは確かでしょう。一方の三沢はこうした”マイナス”を伴うような”賭け”は絶対せず、だからこそ、三沢は”格闘技ブーム”の最中そういったものと一切混じらずにひたすら”プロレス”を貫き通し、”プロレスのみ”でその”強さ”、”凄さ”をファンに訴えてきたのです。

しかし、両者には”共通点”もあった訳で、それは言うまでもなく両者とも体を張って誠心誠意観客が見ている前で戦い抜いた事です。体が”ボロボロ”でも、”怪我”を伴っていても、決して弱みを見せずに戦い抜きました。特に、橋本は’03.7.6、両膝の怪我の手術を終えた後、まだまともに歩けない状態でリングに上がり、案の定”キック”は使えなかったため、”チョップ”で応戦。それによって、なんとあの川田利明を”レフェリーストップ”に追いやってしまいましたからね。あの時に「橋本はやはり只者ではない!」と実感しました。されど、それが今度は”右肩負傷”につながり、そして”死”に至ってしまったと考えると、正直複雑な気持ちですね。三沢も”タイトルマッチ”で森嶋に”高角度バックドロップ”を喰らった時は「ホントやばいんじゃないか?」と思いましたけど、おそらくあの時の”後遺症”は続いてたのでしょうね。

いずれにしても、この2人は”プロレス全盛期”にプロレス団体に入門し、彼らが”トップ”になった時には”新時代”を築くも世間的には”プロレス離れ”が起こり始めた頃であり、そして、”次の世代”が育ち始めた頃には”プロレス低迷期”に陥り、”格闘技ブーム”と戦いながら”己のプロレス”を追い求め、そしてそれを貫き、最後に”天寿”を全うしました。こうして橋本真也と三沢光晴は”星”となり、今でも”日本プロレス界”を見据えながら夜空に光り輝いています。 [徹底比較! ”星”になった二人の戦士]の続きを読む
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  1. 2009/06/28(日) 13:24:33|
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またも”スター”がひとり・・・ -マイケル・ジャクソン急死-

今年5月2日、忌野清志郎、”ガン性リンパ管症”で死去。6月13日、三沢光晴、試合中の事故による”頚髄離断”により死去。そして・・・、6月25日(日本時間26日)、”米国を代表するポップスター”マイケル・ジャクソンが”心不全”のためロサンゼルスで死去しました(哀) 享年50歳。ここ最近、”著名人”の死が相次いでいますが、また一人”大物スター”を無くしてしまいました(悲)

マイケルは、25日昼頃、ビバリーヒルズの自宅で”心不全”とみられる症状を起こして倒れたとの事。救急隊の蘇生措置を受けたが、約2時間後に搬送先の病院で息を引き取ったそうです。その後、遺体は解剖されるも、”死因”の特定は5~6週間かかるとの事。ただ、マイケルの代理人だった弁護士によれば、マイケルは”鎮痛剤”を服用し過ぎていたようです。実は、マイケルは7月からロンドンで約12年ぶりの”コンサート”を計50公演行う予定だったが、日程を延期。抗生物質の効かない”メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)”に感染したとの報道があったようです。

マイケル・ジャクソン・・・1958年、米国インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる。
1966年、8歳の頃ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロンら兄達と共に”ジャクソン5”を結成。’68年、モータウンと正式に契約し、翌’69年10月、「帰ってほしいの(I want you back)」でメジャーデビュー。”ヒットチャート全米1位”を獲得。次のシングル「ABC」も大ヒットし、なんとあのビートルズを1位の座から引き摺り下ろして”1位”を獲得。
その後、”ジャクソンズ”と改名し、それに平行して’71年から”ソロ活動”を始める。’78年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会う。その後、彼はマイケルの”音楽プロデューサー”となり、”音楽と映像の融合”を実現。後のマイケルの”大成功”のきっかけとなる。’82年にアルバム「スリラー」が大ヒット。37週にわたり”全米1位”を記録。このアルバムの中から、’83年1月に「Billie Jean」がシングルカット。翌月2月に「Beat It」がシングルカットされ、そのプロモーションビデオではマイケルの背後にいる多くの群集のダンスが話題を呼び、更にエヒ・ヴァン・ヘイレンが起用された事で”画期的な変革”となる。更に同年12月、タイトル曲「Thriller」がシングルカットされ、そのミュージックビデオが後に”最高傑作”と呼ばれるようになる(ギネスブックに認定される。)。
’85年には”エチオピア難民救済”を目的とした”USA for AFRICA”に参加し、ライオネル・リッチーと共作して「We are the world」を発表。’87年8月にアルバム「BAD」を発表。「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げる。翌年88年1月、自伝「ムーンウォーク」を出版。4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストでは初登場1位を獲得。
’91年11月にアルバム「Dangerous」を発表。発売後6週間において1千万枚を突破し、ビルボードでは4週連続1位を獲得。同時期に発売されたシングル「Black or White」は20ヶ国以上で1位を獲得し、全米チャートで7週連続1位を獲得。
'93年、少年に対する”性的虐待疑惑”で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。翌’94年には自身のプロダクション「MJJプロダクションズ」を設立。同年5月、エルビス・プレスリーの娘・リサ・マリー・プレスリーとドミニカ共和国で電撃結婚。同年10月に発売される予定だった”ベストアルバム”が発売延期となり、翌’95年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売。その前月の5月にアルバムに先行して、妹ジャネットとのデュエットで話題となったシングル「Scream」が発売される。同年8月にシングル「You Are Not Alone」が発売され、”ビルボードHot100”における初登場1位を獲得。”ショートフィルム”では妻のリサ・マリーとセミヌードで競演。同年12月には”地球環境破壊”について歌った「Earth Song」をヨーロッパでシングルカットし、イギリスで6週連続1位を獲得(100万枚突破。イギリスにおける最大のヒット曲となる。)。
’96年11月14日、デビー・ロウと2度目の結婚。翌97年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600万枚以上の売り上げを記録。が、ソニーとの確執が表面化し、同年10月に発売される予定だった「HIStory」からの第7段シングル「スマイル」が販売停止に。’98年に「ノーベル平和賞」をノミネート。この年7月に来日し「世界空手連盟」の朝堂院大覚(松浦良右)総裁から「名誉五段」を授与される。この際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。’99年6月、有志の友人達と共に2つのチャリティコンサートを開く。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。
2000年12月12日、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした(ジャクソン5としても’97年殿堂入りしている。)。2001年10月最新オリジナルアルバム「Invincible」を発表。8月先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録。同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行う。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More Can I Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在おり、マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、リッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる(後に、オンラインで2ドルで販売される事が決定し、2003年10月にダウンロードを開始。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。)。
2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せたが、マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」と謝罪。2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりの事でり、その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。
2003年11月18日にアルバム「ナンバー・ワンズ」をリリース。が、この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され”マイケル・ジャクソン裁判”が始まる。2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。翌2005年6月13日、”性的虐待疑惑”のすべての件に関して”無罪評決”が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住。同年7月、2枚組のベスト盤「The Essential Michael Jackson」を発売。裁判の影響もあってかアメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う。
2006年に、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、「トゥー・シーズ・レコーズ」と契約。同年6月17、18日にはドイツの首都ベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催される。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。同月「MJJプロダクションズ」を段階的に廃止する目的で、「マイケル・ジャクソン・カンパニー」を設立。同年8月25日午後2時25分頃、マイケルの邸宅内に設けた遊園地「ネバーランド」の西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。同年9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。そのため、6月に設立が発表された「マイケル・ジャクソン・カンパニー」がレコード会社としての役割を担う事となる。同年11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム「スリラー」の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道される。だが、実際には6500万枚と記載されていた。同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコン、ウィル・アイ・アム、カニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。2008年9月、「MICHAEL JACKSON KING OF POP」をマイケル生誕50周年を記念してリリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本ではその中の15曲が収録された。
そして・・・、今年2009年6月25日、ロサンゼルスの自宅で倒れ、搬送先のカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院にて”心不全”の為死亡。享年50歳。

僕は、元々”洋楽”にはあまり興味が無かったのですが、それでもその存在を嫌でも知る事となったのが、ビートルズ、カルチャークラブ、シンディ・ローパー、マドンナ、そしてマイケル・ジャクソンだったのです。特に、マイケル・ジャクソンは”音楽”のみならず”映像”や”ダンス”でもインパクトが強く、日本の音楽界にも多大な影響を与えたのは事実でしょう。今日の”J-POP”に”ブラックミュージック”や”ダンスミュージック”が多いのも、マイケルの影響によるものが大きいのではないでしょうか。それだけじゃなく、彼の場合はそれをパクるアーティストも現れて、「Beat It」をパクった「Eat it」とか、「BAD」をパクった「Fat」とかが発売されたのが印象深かったです。

晩年は”スキャンダルだらけ”でしたが、”黒人”でありながら世界的な”トップスター"に君臨し、更にその後の"音楽シーン”に多大な影響を与えたマイケル・ジャクソンに心から"敬意"を表し、 そしてご冥福をお祈りいたします(合掌) [またも”スター”がひとり・・・ -マイケル・ジャクソン急死-]の続きを読む
  1. 2009/06/27(土) 19:06:38|
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本日の新日本大阪大会

【DOMINION 6.20】
〈日時〉6月20日
〈会場〉大阪府立体育館
〈観衆〉5,800人

(IWGPヘビー級選手権)
○棚橋弘至(挑戦者)(31分18秒 ハイフライフロー→片エビ固め)中西学(王者)●
※棚橋が”第52代IWGPヘビー級王者”に!

(スペシャルシングルマッチ Dominion’s Scepter)
○矢野通(14分16秒 鬼殺し→片エビ固め)真壁刀義●

(スペシャルシングルマッチ NJPW vs NOAH Battle diffusions II)
○杉浦貴(14分42秒 オリンピック予選スラム→片エビ固め)後藤洋央紀●

(IWGPタッグ級選手権-ハードコアルール-)
ブラザー・レイ、ブラザー・ディーボン○(王者組)(18分04秒 エビ固め)ジャイアント・バーナード、カール・アンダーソン●(挑戦者組)

(スペシャルシングルマッチ NJPW vs NOAH Battle diffusions I)
○潮崎豪(8分28秒 片エビ固め)岡田かずちか●

(8人タッグマッチ)
○中邑、飯塚、邪道、石井(12分12秒 顔面への膝蹴り→片エビ固め)天山、永田、井上●、本間

(マスカラ・コントラ・マスカラ(マスク剥ぎマッチ))
○タイガーマスク(4分32秒 羽折り固め)ブラックタイガー●

(IWGPJrタッグ王座挑戦者決定戦)
○田口隆祐、プリンス・デビッド(13分13秒 どどん→エビ固め)ミラノコレクションAT、タイチ●

(タッグマッチ)
○大森隆男、吉江豊(5分26秒 アックスボンバー→片エビ固め)スーパー・ストロングマシン、平澤光秀●

(タッグマッチ)
獣神サンダー・ライガー、AKIRA(6分47秒 ムササビプレス→片エビ固め)金本浩二、吉橋伸雄●

中西残念!(悔) やっぱり、棚橋が勝ってしまったか・・・。でも、棚橋がこのまま”チャンピオン”でい続けるのもどうなのだろうか? 三沢があのような”死に様”を見せたのに、棚橋にあそこまでの”覚悟”、”説得力”、そして”強さ”がこの先感じる事が出来るのかどうかは正直不安です。棚橋は確かに”天才”なのかもしれませんが、やはりまだまだ”何か”が足りない気がするのは否定できません。”夢”でもいいから、このまま中西に”長期政権”を築いて欲しかった、というのが僕の”本音”です。

真壁は本当にどうしてしまったのだろうか・・・。確かに、ここ最近の真壁が”不調”なのは否定出来ません。でも、矢野はこれだけの”実力”と”素質”があるなら、わざわざ中邑を担ぎ上げる必要もなかったような気がします。しかしながら、”人間的魅力”は矢野より真壁の方が数段”上”である事もまた事実だと思います。

後藤は確かに強いんですけど、まだまだ”ムラ”があるように思えます。というか、杉浦が思っている以上に強いのかもしれませんが。でも、ここでは絶対負けてはいけない相手に負けてしまった、というのがこれからにとっての”汚点”になってしまったのは事実。やはり、後藤は真壁と手を組んで、”棚橋政権”を大きく揺るがしてもらいたいです!

”タッグベルト”はいつになったら”新日マット”に戻るのだろうか? ”現IWGPタッグ王者”チーム3Dはあまりにも強すぎる! 何せ、かつてはWWEで”世界タッグ王者”に長期君臨していた”ダッドリー・ボーイズ”ですからね。でも、今の新日本のメンバーでは正直キツいと思います。

タイガーVSブラックタイガーの”マスク剥ぎマッチ”はあまりにも時間が短すぎますから、また”偽者”でしょうか? まぁ、”正体バレバレ”なんですけどね(笑)

”ライバル団体”NOAHにおいて「まさか!」の事態が起こってしまった以上、新日本も気持ちを引き締めてもっと”プロレス”を盛り立てて欲しいです。そのためには、本当に”棚橋エース体制”で良いのだろうか? やっぱり、何度も言うように真壁と後藤は手を組むべきなんです! [本日の新日本大阪大会]の続きを読む
  1. 2009/06/20(土) 22:28:55|
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パソコン破損は”虫の知らせ”か? -三沢光晴、死去-

先週の土曜日、つまり6月13日の朝、パソコンを起動させようと思ったら、”初期画面”から次の”Windows画面”が何度も繰り返して表示され、パソコンを起動させる事ができませんでした。結局、”故障”という事で、メーカーに修理に出し、昨日戻ってきたのですが、原因は”マザーボード”の不具合で、それを交換しただけなので”修理費用”は無料で済みました。

で、パソコンが壊れた6月13日の夜、広島グリーンアリーナにおいて「まさか!?」の悪夢が起こるとは思っても見ませんでした。これはまさに”虫の知らせ”という事なのだろうか・・・。

翌日、朝ふとテレビを点け、”ニュース番組”に何気なくチャンネルを変えた時に信じられないニュースが耳に飛び込んできました。「プロレスラーの三沢光晴選手が、試合中の事故により、搬送された病院で”死亡”が確認されました。」 これは”夢”だろう、と一瞬思いましたが、やはり”夢”ではありませんでした(涙) それから、午前8:00に日本テレビ系で放送されている「ザ・サンデー」においても早速このニュースが放送され、司会の徳光氏がかなり取り乱しながらこのニュースを取り上げていました。「”受身の名人”と言われたレスラーが、皮肉にも”受身”によって死んだ。まさに”宿命”を感じます!」という”名台詞”を残しました。NOAHの”地上波放送”が打ち切られ厳しい状況に立たされた所なのに、”悪い事”は続くもんですね(悲) また一人、貴重なプロレスラーを無くしてしまいました(涙)

13日に行われた試合は、バイソン・スミス&斎藤彰俊組(王者組)VS三沢光晴&潮崎豪(挑戦者組)による”GHCタッグ選手権”でした。しかし、斎藤の放った”バックドロップ”が三沢の後頭部を直撃。そのまま、三沢はリング上で倒れたまま動かなくなり、そのまま”レフェリーストップ”で試合終了。「ザ・サンデー」の中では、その後のリング上の状況が放映されていましたが、三沢は倒れたまままったく動かない状態になり、リングドクターが”心臓マッサージ”を行っても反応はなし。観客の”声援”もやがて”悲鳴”のように聞こえるようになり、やがて救急隊が現れて心臓を蘇生させる機械まで持ち込まれました。しかし、それでも反応がなく、そのまま三沢は担架で運ばれてしまいました。そして、搬送された病院で、とうとう”帰らぬ人”になってしまいました。享年46歳。まさに、”プロレスラー”らしい壮絶な”死に様”だったと言えるでしょう(合掌)

三沢光晴・・・1962年6月18日、北海道夕張市に生まれ、埼玉県越谷市で育つ。小学生の時に”プロレスラー”に憧れ、やがてその夢をかなえる為に”レスリングの名門”である足利工業大学附属高等学校へ入学(一年後輩に川田利明がいる)。そして、1981年3月に全日本プロレスに入門。同年8月21日に埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにおいて同期の越中詩郎を相手にデビュー。翌年、東京スポーツ新聞社制定昭和57年度プロレス大賞・新人賞を獲得。その翌年の’83年4月、「ルー・テーズ杯争奪戦」に準優勝。翌’84年3月に越中と共に”メキシコ遠征”に出発。同年、7月に”2代目タイガーマスク”として凱旋し、8月26日、田園コロシアムにおいてラ・フィエラを相手にデビューし、”タイガースープレックス’84”によって勝利。翌85年6月に新日本プロレスから移籍してきた”ジャパンプロレス”所属の小林邦昭の持つ”NWAインターナショナルヘビー級王座”に挑戦するも敗退し、8月に再度挑戦して”タイガースープレックス’85”で勝利し、”シングル初戴冠”となる。しかし、同年10月に”ヘビー級転向”のために王者返上。
そして、1988年5月10日に結婚し、その際に自らの”正体”を公表する。更に、1990年に天竜源一郎ら多くの選手が全日本プロレスを離脱。それによって、同年5月14日の試合において自らマスクを脱ぎ、その後素顔の”三沢光晴”として再出発を果たす。同年の6月8日、日本武道館において当時の”全日本エース”であったジャンボ鶴田とシングルで対決し勝利、念願の”鶴田超え”を果たす。8月には川田利明、田上明、小橋健太、菊池毅らと共に”超世代軍”を結成。1991年7月、川田とのタッグでテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの持つ”世界タッグ王座”に挑戦し、タイトルを奪取する。しかし、同年9月「世界最強タッグ」に伴いベルトを返上。翌’92年8月、日本武道館においてスタン・ハンセンの持つ”三冠ヘビー級王座”に挑戦し、ベルトを奪取。”第10代三冠ヘビー級王者”となる。そして、ジャンボ鶴田が”B型肝炎”を理由に”長期欠場”をしたため、事実上の”全日本エース”となる。1994年3月、”全日本の象徴”ジャイアント馬場から初の”ピンフォール”を奪う。
そのジャイアント馬場が、1999年1月に他界。そしてジャンボ鶴田も同年2月に引退。三沢は同年5月に全日本プロレスの”新社長”となる。しかし、翌2000年の4月に”全日本プロレスオーナー”である馬場元子夫人との確執が表面化。同年6月13日、定例役員会において三沢が口頭で一方的に取締役辞任の意向を伝え散会。同時に小橋・田上・百田も取締役辞任。オーナー側との亀裂は決定的となり、15日にフロント陣を含めた離脱者全員で全日本に退団届を郵送し受理。翌日16日に全日本を退団した選手、スタッフを集めディファ有明にて新団体設立会見。同28日の記者会見で8月5日、6日ディファ有明にて旗揚げ戦を行う事を発表。 そして、同年7月10日、記者会見で新団体名を7月7日付けで「株式会社プロレスリング・ノア」として登記申請したと発表。(15日の旗揚げ戦チケット発売日は長蛇の列になり、旗揚げから3戦の計6000枚のチケットが1時間足らずで完売。)  同年8月5日に”旗揚げ戦”を開催。
2001年3月21日、NOAH公式のベルト”GHCヘビー級王座”のトーナメントが開催。翌月4月に有明コロシアムにおいて高山善廣を下し”初代GHCヘビー級王者”となる。 同時期に日本テレビ系列”地上波放送”が開始。同年7月、日本武道館における”GHCヘビー級選手権”において挑戦者の秋山準に敗北。同年11月には小川良成をパートナーにベイダー&スコーピオ組から”GHCタッグベルト”を奪取(翌月12月に高山&大森組にベルトを奪われる)。2002年5月2日、新日本プロレス主催の”東京ドーム興行”に参戦し、蝶野正洋とシングルで対決(30分フルタイムドローに終わる。) 同年9月23日、日本武道館において高山善廣を破り”第5代GHCヘビー級王者”となる。翌’03年3月1日、日本武道館において膝の怪我から完全復帰した小橋健太と”GHCヘビー級ベルト”を賭けて戦うも”バーニングハンマー”で敗北(この試合が2003年度プロレス大賞・ベストバウト賞を受賞)。翌2004年1月、新日本に流出していた”GHCベルト”を奪還すべく小川良成と組んで永田裕志&棚橋弘至組を破りベルトを奪取。同年7月10日、NOAH初の東京ドーム興行「DEPARTUR 2004」において全日本プロレスの武藤敬司&太陽ケア組と対戦し、王座防衛に成功。同月18日、今度は三沢が全日本の両国国技館大会に参戦。小島聡とシングルで対決し勝利。同年10月には全日本の「武藤敬司デビュー20周年興行」において武藤と”ドリームタッグ”を結成。
2005年1月8日、天竜源一郎と15年ぶりにタッグマッチで対戦。同年7月18日、2度目のドーム興行「Destiny 2005」において5年ぶりに川田利明とシングルで対戦し、勝利。翌’06年9月12日、グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任。同年12月10日、丸藤正道の持つ”GHCヘビー級王座”に挑戦し、”雪崩式エメラルド・フロウジョン”で勝利し”第11代GHCヘビー級王者”となる。その後、同ベルトを8度防衛し、2008年3月2日に森嶋猛の挑戦を受け”GHCヘビー級選手権試合”を行うも”バックドロップ”によって敗北し、王者陥落(これが三沢の最後の”シングル王座戴冠”となる。)。そして、今年2009年1月4日、新日本の正月東京ドーム大会に参戦し、杉浦貴と組んで中邑真輔&後藤洋央紀と対戦するも敗北。同年3月一杯をもって「プロレスリングNOAH中継」の地上波放送は打ち切り。同年5月6日、潮崎をタッグパートナーに「グローバル・タッグリーグ戦」で佐々木健介&森嶋猛組を破り優勝。それによって、今月13日にバイソン・スミス&斎藤彰俊の持つ”GHCタッグ選手権”に挑戦する事になった訳だが、奇しくもこの試合において三沢は斎藤の”バックドロップ”を受け後頭部を強打、”頚髄離断”によって搬送先の病院で他界。

現時点の”日本プロレス界”の事実上の”リーダー”とも言うべき三沢光晴が、”リング上”で死んだ! これまで危険な技を何度も喰らいながらも這い上がり、”受けの名手”とも謳われたレスラーも、やはり”生身の人間”だった、という事を今回の件で思い知らされた気がします。されど、その反面、「これこそが”プロレス”なんだ!」と胸を張って言える気もする事も確かでしょう。”格闘家”と呼ばれる人はこういう事を絶対に避けますからね。そういう意味でも、”プロレスラー”とは”格闘家”を超えた存在だといえるのではないでしょうか。

されど、この件によっておそらく世間から”問題視”される事は必定。”競技”なのか”エンターテインメント”なのかを本格的に”議論”されるようになるでしょう。そういった意味で、武藤を中心に全日本、新日本、NOAHの首脳が集まって”プロレス統一機構”を検討しているとか。確かに、三沢光晴という”偉大なレスラー”を失ったのは非常に残念です。でも、今回の三沢の”死に方”を”全面否定”する事も果たして正しいと言えるのだろうか?「 ”プロレスラーの中のプロレスラー”が、もっとも”プロレスらしい死に方”をした!」 それでいいんじゃないでしょうか。これは、決して”他の格闘技”、ひいては”他のスポーツ”では決してできない事ですから。これによって、”プロレス=八百長”なんて軽々しくは言えなくなるだろうし。

”21世紀”に入り、世間的には”K-1”、”PRIDE”といった”格闘技ブーム”が起こり、”日本プロレス界のカリスマ”と言われたアントニオ猪木までもがこの”格闘技ブーム”に翻弄される中、断固として”プロレス”を守り続け、”プロレスの真髄”を貫き通した”偉大なプロレスラー”三沢光晴に、心のそこからこれまでの”敬意”を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます(合掌) [パソコン破損は”虫の知らせ”か? -三沢光晴、死去-]の続きを読む
  1. 2009/06/20(土) 12:43:04|
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スーパーpsy野神

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