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戦国時代の山城

大河ドラマ「風林火山」の影響か、最近妙に戦国時代の”山城(やまじろ)”に興味があるんです。

”山城(やまじろ)”とは、現在一般的に知られている城(平城(ひらじろ))のように”石垣”の上に天守閣をはじめとする”建造物”があるものではなく、自然の山を加工するかもしくは最初から土を盛って作った所謂”要塞”で、高台の上に”本丸”、”二の丸”、”三の丸”等の”郭を設け、更にそれぞれの間に”堀”や”空堀”を設けて敵の侵入を防ぐ構造をなしており、それぞれの郭の外側を柵で囲い、その中に比較的簡易な屋敷が設けられ、”本丸”には更に”物見櫓”が設置されていた物です。これらは、あくまでも”実践用”の城だったのです。

僕の住んでいる東京多摩地区には、こういった”山城跡”がいくつかあり、”心霊スポット”で有名な八王子城は大分前にいった事があるし、八王子城と同じく”小田原北条氏”の属城だった滝山城や片倉城には最近行きました。それから、先週友人と愛知県方面に旅行した際には長篠城に行きましたし、以前白川郷に行った際にも帰雲城に行ってます。中には”山城”の状態で近代風に改築された備中松山城、岐阜城、郡上八幡城にも行っていますが、これらの共通していえるのが、皆良い”見晴台”になっている、という事です。もっとも、今の”平城”でも”天守閣”の最上階に上れば見晴らしはいいですけど、正直”実戦向き”ではないですよね。

”山城”に対する”魅力”というのは、やはりあくまでも”合戦用”に作られている、という”生々しさ”を感じるからです。対して”平城”はあくまでも大名の”権力”を見せつけるための”建造物”ですからね。これはこれで素晴らしい物を感じますけど、なんとなく”歴史的遺構”としての価値は”山城”の方が高いようにも感じるんです。

現在、かつてのように”柵”や”屋敷”を復元した山城(荒砥城)も長野県の上山田温泉の裏辺りあるようですから、10月ぐらいに行こうかと思っております。

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滝山城

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八王子城

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荒砥城 [戦国時代の山城]の続きを読む
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  1. 2007/09/16(日) 16:51:54|
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歴史上人物トンデモ説②-徳川家康=信玄の隠し子説-

まず、この説を取り上げる前に”家康替え玉説”について語る必要があるでしょう。いくつかの説がありますが、一説には”家康=生臭坊主説”があり、今川義元が”桶狭間の戦い”で敗れると、当時松平元康と名乗っていた家康は今川家から独立。その時に願人坊主なる”生臭坊主”が現れて、やがて、彼が元康を殺した後、名を”徳川家康”と改め、信長と同盟を結んで”天下取りの道”を歩んでいった、という説があり、一説には”家康=影武者”説があり、隆慶一郎著の”影武者徳川家康”の元ネタにもなっていますが、この小説では主人公世良田二郎三郎元信は”関が原の合戦”の折に刺客に殺された家康に成り代わって、合戦後、家康として”徳川幕府”を開いた、としていますが、”元ネタ”の方では、家康が松平二郎三郎元信(後に元康)と名乗っていた頃に影武者となり、”桶狭間の合戦”後、元康が不慮の死を遂げ、それによって二郎三郎がそれに成り代わって”徳川家康”と名乗り、やがて”天下人”となった、としています。でも、実はこれらの話には”モデル”となる話が存在していたんですよ。それは松平氏の事実上の”始祖”である松平親氏のエピソードをそのままなぞったものではないか?と思えるんですよ。まず、氏親の出自が世良田氏である事。氏親が”僧”徳阿弥として三河松平郷の豪族、松平信重の客人となった事と、願人坊主が松平元康に接近した事が似ている事。それと、そもそも”替え玉”になる前の元康の前名が元信であり”二郎三郎”と称していた部分があまりにも出来すぎているし、実は家康の祖父である松平清康も”世良田二郎三郎”を名乗っていた事から、おそらく松平氏の事実上の”始祖”である氏親の”前名”が世良田二郎三郎であり、それが代々受け継がれていたのではないか?と考えられる事。でも、逆にこの氏親のエピソードが家康の”真の姿”を元にしたとも考えられなくはないです。しかし、だとしたら清康が世良田二郎三郎を名乗っていたのは何故でしょう? 僕が思うに、この氏親のエピソードは、”源氏流新田氏出身”という事だけを除けば後は”真実”だったのでは?と思うのですよ。

となると、これまでの”替え玉説”の”信憑性”は疑わしくなるでしょうね。で、こうなってくると、下記の”謙信女説”と同様に”新たな説”が出てくるもんなんですよね。それが、実は家康はやはり”替え玉”で、その正体は実は武田信玄の隠し子だった、とする説です(笑) おそらく、どうしても”家康替え玉説”を主張したい人の言い分としては、家康の”前半生”と”後半生”の性格があまりにも違う、と言う所にあるのでしょう。”前半生”は”律儀”で”実直”であったのに、”後半生”では”タヌキ”になった。でも、おそらく”前半生”も”タヌキ”だったのでしょう。”タヌキ”がただ”猫”をかぶっていたに過ぎなかったのではないでしょうか(笑) 最も、信玄に隠し子がいたとして、近隣の大名であった徳川家を乗っ取るためにこのような策を取った可能性はあるでしょうけど、だとすると、家康の最終的な”家系”が新田氏になるのはおかしいです。同じ”源氏”の家柄である武田氏であれば、むしろ自分の流れに近い説を出すのが筋ですから。

で、じゃぁ、家康の家が元々駿河・遠江の今川と尾張の織田に挟まれた”弱小大名”松平家から両者の”人質”となり、そして、今川義元が”桶狭間の戦い”において信長に討たれた後その信長と同盟を組み、次第に家康自体も大きな力を持つようになり、信長が本能寺で討たれた頃には事実上の”No.2”の地位にいて、そしてその後”天下”を取った秀吉亡き後最終的に”天下”を治めて”徳川幕府260年間”の礎を築く事ができたのか? という部分に家康が元々只者ではなかった、と考える人が多いのは確かでしょう。おそらくその通りです。そして、家康は表向きには”征夷大将軍”になるために”源氏”の姓を名乗っていますが、実際は秦氏の一族だった可能性が高いようです。そこに”替え玉説”と絡めようとする人もいるのでしょうけど、そもそも、家康の”祖先”である松平氏親自体が”秦氏”であれば何の問題もない話なんです。氏親が新田氏の配下の人間であれば、”南朝方”についた事によって”落人”になった可能性は高いでしょう。そして、事実上”無法地帯”に近かった三河に潜入。”朝廷側”にいる秦氏の”本家”と常に連絡を密にし、室町時代中期、室町幕府内が”権力争い”によって不安定になったのを機に氏親の何代か後の当主がの”戦国時代”をプロデュースしたプロジェクトの一員となって”戦国時代”を動かしていったとすればどうでしょうか? となれば、家康もそうした”プロジェクト”の配下にあり、家康の”今川人質”も初めから”シナリオ”が出来ていたのではないでしょうか? そして、”桶狭間の戦い”においては家康は信長とつながっていて、家康が逐一信長に”情報”を漏らしていた事が信長の”勝因”につながった、とも考えられるのではないでしょうか。

そうなると、そもそも家康が”替え玉”である必要はなくなるのです。家康の背後に常に秦氏がいて、そして、何人もの”影武者”が存在した事を考えれば、”替え玉説”が生まれた要因は全て解決されるのではないかと思います。よって、”家康替え玉説”は無かった、というのが僕の考えです。ましてや”信玄の隠し子説”はちょっと出来すぎていると思うんです。 [歴史上人物トンデモ説②-徳川家康=信玄の隠し子説-]の続きを読む
  1. 2006/11/19(日) 14:12:54|
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歴史上人物トンデモ説①-上杉謙信女説-

最近、コンビニなどに置いてある”歴史本”の中で顕著に見られるのがこの”上杉謙信女説”です。かつては”ホモ説”が囁かれていましたが、最近ではこの”女説”がかなり有力視されているようです。

まず、”ホモ説”が囁かれる発端となったのは、謙信が”一生独身”だった事にあります。当初は”義の武将”として”正義の道を貫くため”、そして”毘沙門天”の生まれ変わりであると信じていた彼のそういったものへの”信仰心”によるものとされてきましたが、”歴史研究家”の中で「戦国時代の武将がどのような理由があれ”妻”を持たないなどあり得ない!」としてこのような説が生まれたのでしょう。事実”戦国時代”は日々”合戦”に明け暮れていたため、戦場に女性を連れ込む事ができない事から”小姓”を女性の代わりにしていたようです。そこで”同性愛”が芽生えてもおかしくない、という説です。しかし、この説には”限界”があり、謙信の”ライバル”武田信玄の軍の中には”女武者”がいた事が判明しているため、女性が”戦場”に行く事は別に不可能ではない事が発覚。それに、実際小姓を”女代わり”にしていた武将の殆どが”実生活”では妻子がいて、普通に”男性”として暮らしていました。だから、”独身”であった事が必ずしも”ホモ”につながるかどうかが”雲行き”が怪しくなったため、”女説”が浮上したのでしょう。

でもって、”女説”にはそれなりの”根拠”が存在しているそうです。①彼の”死”の原因が”脳溢血”ではなく、女性の”更年期障害による夫人病の一種”である”大虫”である、という記録がある事。②合戦中にも関わらず1ヶ月周期で腹痛を訴え、兵を引き部屋に引き篭もったりしている事。③謙信の遺品の衣類を見てみると真っ赤であったり、とても男物とは思えないものを好んで着ており、更に彼が”傾奇者”だった、という記録はないとの事。④謙信が書いた手紙などを見ると、表現や気の使い方が女性的で男性とは思えない事。⑤スペインの国王宛に書かれた手紙には「景勝の叔母」と記載されている。 ⑥当時、民衆の間で「男もおよばぬ大力無双」(男性を差し置いて、またとない強さ)と歌った歌がある。 ⑦当時、女性城主は珍しくなく(例えばおつやの方)、江戸時代に入ってから武家諸法度により初めて女性城主が認められなくなった。そのため江戸時代から今現在に至るまで「城主=男」という常識が存在する事。⑧ 関ヶ原の戦い以前から徳川家と対立しており、やっと許しをもらったばかりの上に、外様大名で立場が弱かった上杉家は大幅に土地を没収されることは目に見えており(実際、米沢30万石に減転封されている)、その上武家諸法度の城主=男により「謙信の代でお家断絶している」と更に言い掛かりをつけられるのを恐れ、謙信が女性という証拠になるものを処分し、無理矢理男性にする必要があった事。⑨ 上杉謙信の肖像画は見るからに男性であるが、これは江戸時代に作成されたもので、謙信を男にする必要があったため不自然にヒゲを生やした男の肖像画を描かせたのではないか?と考えられ、また、江戸時代まで肖像画がなかったという点も不思議で、上記理由により処分してしまったと考えると辻褄が合う事。

以上が”女性説”を裏付けるという”証拠”のようですが、よくもまぁ、唐突にこれだけの”証拠”が出てきたもんですね(汗) その前に”ホモ説”が囁かれていたのに。もし、これらが本当だとしたら、もっと前から”上杉謙信女性説”は存在していなければおかしいのではなかろうか? そうなれば、まず”ホモ説”が出てくる自体がおかしいんです。そして、今までこれらを隠していたとしましょう。でも、”戦国時代”という時代は”表の合戦”と共に”裏の合戦(つまり情報戦)”も盛んだった訳ですから、彼の”ライバル”である武田信玄なんてそういった”情報戦略”を得意としていた訳ですから、その時点で”謙信女説”がその頃から噂されていてもおかしくないはず。更に、上杉家が江戸時代になってから”取り潰し”を恐れてこれらの事を”封印”した、という事に関しても、この時点では当主は景勝です。その”養父?”謙信が”女”だったとしても、秀吉の時代から既に景勝は”大大名”であり、更に”五大老”にも列せられた訳ですから、例え謙信が”女”だったとしてもそれが”お家断絶”の理由にはならないはずですから。景勝が”女”だったら別ですけどね(笑) 更に、上記の”証拠”の中で、①と⑤以外は何も”女”であった根拠にはならないと思うんです。②に関しては、只単に”胃腸”が弱かっただけかもしれないし(笑)、③に関してもじゃぁ、謙信が”傾奇者”でなかった決定的な証拠というのもあるのでしょうか? 僕は”戦国大名”の多くは”傾奇者”だったと考えています(家康は違うと思うが・・・)。④だって平安時代の歌人、紀貫之を考えれば”女性”である根拠にはなりません。⑥が果たして謙信の事を歌っていた根拠があるのでしょうか? ⑦に関しては、おつやの方は表向きには”城主”ではありません。あくまでも”養嗣子”となった信長の五男、坊丸の”後見人”となっただけ。このような例は、源頼朝の妻、北条政子が”尼将軍”と呼ばれた事や、淀君が幼い豊臣秀頼に代わって大坂城を牛耳っていたのと一緒で、正式な意味での”当主”とは言えないでしょう。更に、遠山家は”一豪族”、上杉家は”戦国大名”。”格”が違いすぎます。となれば、”戦国時代”の常識で考えるならば、”女大名”なんてやはりおかしいと思います。それだったら”下克上”の風潮から、当然ながら力のある家臣が家を乗っ取る可能性だってあり得るわけですからね。⑨なんて尚更、そもそも”歴史上人物”の”肖像画”の信憑性が問われるのは今に始まった事ではありませんからね。

いずれにしても、これらは皆”女性説”をまくし立てようとしている連中の”こじつけ”、更には”でっち上げ”のように思えてならないんです。今の”女性飛躍”の背景から考えれば、このような”説”が生まれてもおかしくないですからね。いずれにしても、”女説”がかねてからあったのであれば、”ホモ説”の余地は無いはずですからね。僕は、これらにはもっと別の”裏事情”があるように思えるんですよ。まず、以前書いた事がありますけど(おそらくその記事は抹消されていると思うが(涙))、謙信が”独身”だった事が何も”ホモ”更には”女”である必要は無いんです。”戦国時代”であればこそ、”家督争い”を避けるためにあえて”表向き”には結婚せず、一族から”養子”を迎える事によって”お家安泰”を図った、とも考えられるからです。でも、それでも”実子”でなければダメ!、という家臣の声があったとしたら、その”実子”に家督を継がせればいいだけの話。何を言いたいか?というと、実は謙信には”愛人”がいたと言う記録が確かあったはずなんですよ。それが最近何か無視されていますよね。で、一応は両者は別れた事になっていますが、もし別れていなかったとしたら? 更にその間に”隠し子”がいたとしたら? その子を表向きに”養子”に迎え、それが後に景勝になった、という可能性もあるのではないか?と僕は考えているんですよ。でも、そうなると、謙信の”聖将伝説”に傷が付いてしまうのも確かでしょう。で、僕はそもそも謙信が”義の武将”、”聖将”だった事に”疑問”を感じるんです。

謙信が”義の武将”とされるエピソードですが、まず、越後の隣国である北信濃の豪族、村上義清が武田信玄(当時晴信)に領地を奪われたため、謙信(当時長尾景虎)に助けを求めたため、その”義”のために信玄と戦ったのが所謂”川中島の戦い”です。でも、このような理由で戦をする大名なんて当時は珍しくなかったはずですし、あの織田信長とて”長篠の戦い”なんかはそれに近い合戦だったと思います。いずれにしても、後々”領民”の信用を得るためには”大義名分”は必要なんです。大体、今でもアメリカなんかはこの手を使ってるんだから(笑) 結果、謙信は信玄から村上義清の所領を奪い返す事はできませんでしたが、仮にそれが出来たとしても本当に村上義清にその領地を果たして返すつもりはあったのだろうか? そして、もう一つが「敵に塩を送る」のエピソードです。これは、武田信玄が今川義元亡き後駿河を占領しようとした事によって、今川と同盟を結んでいた北条氏康を中心とした”近隣諸国”の大名達がこぞって甲斐への”塩の道”を止めたのに対して、謙信だけが「信玄の家臣、領民まで苦しめるわけには行かない。」として塩の道を止めなかった、というのがこの話しの元になっているようですが、まぁ、信玄の長年の”ライバル”である事を考えれば、あえて塩を送る事で敵を”油断”させる、という手もあります。そして、その”家臣”や”領民”を自分の所へ寝返らせようとした、という狙いもあったんじゃないでしょうか? いずれにしても、”戦国大名”として生き延びるためには、本当に”義の武将”ではやはり無理があると思います。ただ、それを演じる事が他の武将、それから庶民に対する”アピール”にはなったと思うんですよ。

で、その”義人伝説”を持つ謙信ですが、謙信が”欲”を持たない”義”の人であり、そして”信仰心”に熱い人だった、という性格と似た人が日本史上には一人存在します。それは聖徳太子です。でも、聖徳太子の言い伝えの多くは、実は”原始キリスト教徒”の子孫である可能性が高い秦氏によって伝えられたイエス・キリストのエピソードをパクっただけのようです。そして、聖徳太子の”参謀”には秦河勝なる人物がいました。そして、僕はそもそも”戦国時代”の”プロデューサー”は秦氏だと考えているんで、上杉家の背後にも当然ながら秦氏が存在したと考えています。そうなると、彼らは謙信に対しても”イエス・キリスト”とダブらせようとしていたのではないか?と思えるんですよ。まず、謙信が”一生独身”という説にしても、「新約聖書」には表立ってイエスが結婚していた記事は存在していないようです。されど、イエスが”磔刑”を受けた際に現場にいた”元娼婦”のマグタラのマリアが事実上の”妻”だった可能性が高いとの事。となれば、謙信にも”事実上の妻”が存在し、その上”隠し子”がいた可能性があった事も否定できないのではないでしょうか。そして、”記紀神話”における”最高神”天照大神は表向きには”女神”となっていますが実は”男神”で、しかも、そのモデルがイエス・キリストである可能性が高いとの事です。何故なら、イエスの”磔刑”の場面と、天照大神の”天岩戸隠れ”の場面があまりにも良く似ているからです。そして、上杉謙信が現在頻繁に”女性説”が囁かれています。これらが”偶然の一致”だとはどうにも思えないんですよ。

となれば、です。問題は謙信の”死”です。謙信の死は表向きには”病死”という事になっていますが、本当にそうなのだろうか? 戦国大名の中には表向きには”病死”でも、実際は”暗殺”されたのでは?という噂のある武将は結構いるようですからね。信玄の死にしても、徳川家の記録では徳川の鉄砲隊の放った”流れ弾”が当たって死んだ、とされているようですからね。いずれにしても、ここまで謙信とイエスが似ていることを考えると、イエスが信徒であるペテロやユダに裏切られ、そして同じ”ユダヤ人”に殺された事を考えると、謙信はもしかすると家臣に殺されたのではないでしょうか? そして、その”首謀者”が彼の”隠し子”である事を知った上杉景勝である、なんていう事がもしあったとすれば、それは”一大事”です。まぁ、この説は僕が勝手に思いついた説で、何の根拠もありませんが、もしこれが本当だとしたら、上杉家が隠そうとしていたのは明らかにこちらの方ではないでしょうか。別に謙信が女だからって、”お家断絶”には直接つながらない。でも、家臣とグルになって”義人”とされている”偉大な武将”を殺して、それを隠していた、なんていう方が幕府に睨まれるのは必定ですからね。

まぁ、こんな”オチャラケ”な説は置いとくとしても、一つ言える事は”上杉謙信女説”の背景に”秦氏”あり、という事です! [歴史上人物トンデモ説①-上杉謙信女説-]の続きを読む
  1. 2006/11/19(日) 11:45:47|
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歴史は繰り返す!

僕は、”超常現象ファン”からは未だ”賛否両論”の感がある”サイキックエンターティナー”飛鳥昭雄のサイト「ASUKA AKIO WORLD」を時々拝見するのですが、その中の「コラムコーナー」の「浪漫サイエンス」というページの「古代文明」の項目の最新記事に「歴史は繰り返す・・・。」という出だしが書かれており、この記事を読んで本当に納得させられた次第です。

確かに、”歴史”は繰り返すんです! ”歴史上”の各時代は、それぞれいくつかの”時期”に分かれており、”創造期”→”最盛期”→衰退期”というものを常に繰り返しながら”歴史”というものは刻まれているんですよね。これは、どの国の歴史にも、また、どの分野の歴史にも当てはまるんです!

”世界史”的には多くの国には”王朝”というものがあり、それらが起こっては滅び、滅んでは起こる、を繰り返しながら”歴史”というものが作られていき、日本では”王朝”というものは”天皇家”しかありませんが”大和時代”、”奈良時代”、”平安時代”、”鎌倉時代”、”室町時代”、”安土桃山時代”、”江戸時代”・・・etcの”時代区分”によって、それぞれ”創造期→最盛期→衰退期”を繰り返しているんです! 

”日本史”でいえば、”大和時代”は”天皇(当事は大王)”と”豪族”の”合議制”によって政治が行われていた時代。しかし、”一部の豪族(蘇我氏)”の専横が行われるようになり、その蘇我氏を一掃して”天皇中心”の世の中に変革させたのが”大化の改新”という政策であり、その後中国の”律令制”を取り入れる事によって”古代天皇制”を確立させたのが”奈良時代”。しかし、その中で”仏教勢力”が強い権力を持ち始めたため、桓武天皇の時代に都を奈良から京へ移し、藤原氏などの”貴族(公家)中心”の世の中に移行したのが”平安時代”。しかし、”貴族”が本格的に”実権”を握る上では”警護”も強化せねばならず、その”警護”に当初携わっていたのが”武士”なんです。しかし、その”武士”も次第に”武力”によって”権力”を握るようになり、”平安時代後期”それまで政治の中枢を牛耳っていた藤原氏に代わって平氏(平家)が実権を握るようになりました。でもって、この”平家”自体が”栄枯盛衰”を如実にあらわしております。清盛が”実力”で築き上げた”地位”を、その一族が一気に食いつぶし、そして”滅亡”へと向かいました。俗に「奢る平家は久しからず。」と言われるものです。

そして、その平家を滅ぼした源頼朝は朝廷から”征夷大将軍”に任ぜられ、”武士中心”の新たな政治機構である”幕府”を鎌倉に置きました。しかし、”源氏”は三代で滅び、その”参謀”的地位にいた北条氏が”実権”を握り、やがて鎌倉幕府を”独占化”。それによって、朝廷や各国の御家人がないがしろにされ、更に”元寇”によって財政的にも多大な”ダメージ”を受けた事によって、多くの人々の”不満”が大爆発! それによって、朝廷と足利尊氏、新田義貞、楠木正成らを中心とした”御家人”が手を結び、”鎌倉幕府”を倒したまでは良かったものの、その後、後醍醐天皇が”建武の新政”という”古代天皇制”を復活させた政治体系を作り、それまで朝廷をサポートした武士をないがしろにしてほとんど何もしていない公家を優遇した事によって武士達の”不満”が一挙に爆発! こうした武士達に担ぎ上げられた足利尊氏が”朝廷”に刃を向け、新たな”天皇”を擁立し(北朝の成立)、京の”六波羅探題跡地”に”幕府”を作りました(後に三代将軍義満が幕府を室町に移し”室町幕府”となりました。)。それから、後醍醐天皇が吉野へ移って”南朝”を成立し、”南北朝時代”に突入。そして、”南北朝”が統合され、三大将軍義満が”室町幕府”の基盤を固めると、金箔を壁に張り込んだ”金閣寺”に代表される”北山文化”が花開き、かつての平家並みの”栄華”を極めました。しかし、やはり平家同様足利将軍家の”公家化”を招き、更に幕府の中枢にいた”有力御家人(大名)”が力をつけ、将軍家を動かすほどになり、それが”ピーク”に達した八代将軍義政の時代に”応仁の乱”という10年にも及ぶ”大乱”が起こり、それを機に”戦国時代”への扉が開かれる事になります。それによる”下克上”によって本来”家臣”であった者が”主家”を滅ぼし”当主”となる、という事が各地で起こるようになりました(戦国武将の起こり)。

そして、”戦国時代後半”になると、後に”天下”を獲る三人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が現れ、”中世封建時代”から”近世封建時代”へ移り変わります。ポルトガルより”鉄砲”が伝来し、更にフランシスコ・ザビエルによって”キリスト教”が布教。それによって西洋との”交易”が行われ、一気に”西洋文化”が日本に入り込むとともに、信長による”旧勢力(中世封建制度、寺社の権力など)”の破壊、弾圧が行われ、”楽市楽座”を代表するような”民間主導”の”商売体系”が出来上がりました(それまでは寺社の許可が必要だった)。その信長が”本能寺の変”で殺された後、秀吉がその”政権”を引き継ぎ、今度は秀吉が亡くなると”関が原の戦い”に勝利した家康が”征夷大将軍”となり、江戸に”幕府”を開きました(江戸時代の始まり)。ただ、せっかく”新時代”に突入するも、信長の時代に日本に大量に普及したキリスト教を禁じ、また信長の時代に発展した”南蛮貿易”も長崎の出島のみを開港し、しかもオランダを通す形で行われるようになりました(実はこの時点では”鎖国”はしていなかったとの話です。)。つまり、”時代の逆行”がここで行われてしまい、更に五代将軍綱吉の時代には「生類憐みの令」に代表されるような”独裁体制”が敷かれ、その上”元禄文化”が花開いた事によって再び武士の”公家家”が起こり、やがて大幅な”インフレ”を招いてとうとう”財政難”を迎えてしまいました。”西洋”との貿易を一気に縮小した事と、”元禄文化”による”贅沢の極み”の”ツケ”が”財政難”を招いてしまった事は明白。それに対して、八代将軍吉宗は「享保の改革」を行うも彼の死後景気は”逆戻り”してしまい、老中田沼意次により「田沼政治」は”賄賂政治”のレッテルを貼られ田沼は失脚、代わって”老中首座”になった松平定信による「寛政の改革」は”恐怖政治”を生み、その後老中水野忠邦による「天保の改革」もまた”恐怖政治”に終わってしまい、”景気回復”には至りませんでした。

そんなこんなで、再び”西洋”と関わる時がやってきました。江戸時代後期の”欧米諸国”は、”産業革命”による”近代化”によって船も武器も日本よりも遥に発達したものを製造できるほどになりました。”鎖国?”をしている間に日本は欧米とかなりの”格差”をつけられました。その”欧米諸国”が”貿易船”あるいは”漁船”の”燃料”や”食料”を調達するために日本に何度も接触したにもかかわらず、日本は「異国船打ち払い令」を発布し、外国船を何度も追い払っていきました。それに業を煮やしたアメリカは、ペリー提督を乗せた軍艦によって日本の浦賀沖に出現。”大砲”によって現地の人々を威嚇して、それに降伏した幕府は、ペリー一行を上陸させ、とうとう「日米和親条約」を結ぶ羽目になり、翌年更にアメリカの日本での行動を有利にした内容の「日米友好通商条約」を締結。事実上の”開国”が行われ、それによって日本中が大混乱。”朝廷”の公家達は必死に”尊皇攘夷”を訴え、それに呼応した各地(主に長州)の下級武士が”倒幕”を主張するようになり、やがて、薩摩藩、土佐藩らも交えやがて”江戸幕府”を倒し、”明治維新”が起こります。それによって、”将軍”は廃止され、”版籍奉還”によって各大名は”藩主”の座を退き、”廃藩置県”によって”藩”が無くなり”県”が置かれ、”身分制度改正”によって公家、大名が”華族”、一般武士が”士族”、農民、商人、職人が”平民”に置き換えられました。そして、”天皇”を中心とした”中央集権国家”が復帰し、”帝国主義”の時代へ突入する事になります。表向き”階級制”が無くなったとはいえ、やはりこれまでのように”農作物”を作らされる上に、”徴兵制”によって戦争への参加を余儀なくされる”農民層”は”江戸時代”以上に過酷な扱いを受けるようになり、反対に中々”戦争”への参加が出来ない”武士層(不平士族)”の不満が募り、やがてそれに呼応した西郷隆盛、江藤新平を中心とした”西南戦争”に発展。しかし、江藤は処刑、西郷は自刃し、彼らの健闘もむなしく、本格的な”戦争時代”に突入し、日清、日露戦争を皮切りに”財産”や”地位”の低い”平民層”から徴収された兵士を中心に”軍隊”が形成され、結局は”天皇”を頂点に、”権力”のある政治家や軍人、”財力”のある財閥が得をする目に見えない”身分制度”がそこに築かれる事になります。

”大正時代”には、”大正デモクラシー”として”華やかな文化”が咲き誇った”平和で豊かな時代”が一時的に訪れるも”関東大震災”によって再び日本の経済は悪化、更に”昭和”になると”世界恐慌”によって世界的に緊迫した状態に陥り、やがて”第二次世界大戦”へと発展。日本における”実権”が”政治家”から”軍人”に移行し、”軍国主義(ファシズム)”の時代に突入しました。やがて、日本は満州占領の口実として満州鉄道に爆弾を仕掛け、それをあたかも”中国側”のせいにし(満州事変)、それがきっかけで”日中戦争”が勃発。更に、それが世界を巻き込み”太平洋戦争”へと発展。そして・・・、1945年8月6日に広島、9日に長崎に”原爆”を投下され、日本はとうとう”連合国軍”に降伏。これをもって日本は”終戦宣言”をし、マッカーサ率いる”連合国軍総司令部(G.H.Q)”に統治される事となります。”憲法”が「大日本帝国憲法」から「日本国憲法」に改定され、その中で”天皇の象徴化”と”軍の解体”、”戦争放棄”が提示される事となりました。これによって”戦後日本の幕開け”が訪れる事となります。

以降、”戦後日本”の状況に関しては、飛鳥氏のサイトに書かれている通りです。”戦前”に青年期を過ごした世代の人が”戦後”の焼け野原を”開拓”し、その次の世代の”戦後直後”に生まれた”団塊の世代”が”高度経済成長期”を築き上げ”バブル文化”を食いつぶし、その次の世代の”団塊Jr”が”バブル期”に生まれた”生ぬるさ”と”贅沢”による”ツケ”によって”不況”を迎えた現在何も出来ないままもがき苦しんでいます。そんな中、”飛躍”を見せているのが”若い女性”です。”衰退”に向かう男性を尻目に、女性の多くは若くして”重要なポスト”に就くようになり、”女性社長””女性オーナー”も目立つようになりました。一見このような”事例”はこれまでには無かった、と思われる所ですが、考えてみれば”飛鳥時代”、”奈良時代”には”女帝”が存在し、”平安時代”には”女流歌人”が飛躍し、”鎌倉時代初期”、将軍となった源頼朝の死後、事実上の”実権”を握ったのはその妻の北条政子であり、それによって”北条政権”が築かれる事になり、”室町時代”には”応仁の乱”のさ中、”無能”の八代将軍義政に代わって”政治”を切り盛りしていたのは妻の日野富子でした。それから、時代が下って”明治””大正”にも”女流作家”や”女流歌人”も多く輩出されています。案外「ここぞ!」という時に女性は活躍してるんですよね、こうしてみると。

このような事は、今の日本の”文化面”でも現れているでしょうね。”芸能面”でもそうでしょうし、”スポーツ”なんかもそうでしょう。中でも、戦後日本を代表する”国民的スポーツ”にして”国民的娯楽”となったのが”プロ野球”と”プロレス”です。思えば、こちらにもちゃんと”創造期”、”最盛期”、”衰退期”がちゃんとあるんですよね。”プロ野球”の方では”創造期”は、”戦後”に関しては川上、吉田辺りでしょうか?よくわかりませんが(汗) ”最盛期”は長島、王の時代から田淵、江夏、山本浩二、掛府、江川、それから原、さらには桑田、清原を経て松井、イチローぐらいまでの時代ですかね? ”衰退期”は”メジャーリーグ”に”大物選手”を持っていかれるようになってしまった現時代、という事でしょうか? 
”プロレス”で言えば、”創成期”が力道山、木村政彦、豊登、吉村道明ら”日プロ”&”国プロ”全盛期、”最盛期”が馬場、猪木、それから、鶴田、天龍、長州、藤波、前田、更に”闘魂三銃士(橋本、武藤、蝶野)”と”全日四天王(三沢、川田、小橋、田上)”ぐらいまでの”全日”&”新日”全盛期。”衰退期”は”団体”の”細分化”が激化し、”格闘技ブーム”が台頭し、更に”盟主”新日本が一気に”低迷”した現時代(第三世代の時代)、という所でしょう。

飛鳥氏曰く、「時代が繰り返す」のではなく、「人が繰り返す」としていますが、確かにその通りでしょうね。何も無い所から”新しい何か”を生み出す事によってその”ジャンル(国でも文化でもいいが)”が確立し、それを受け継いだ者が更にそれを”発展”させ”隆盛”を極めさせ、しかし、それによって”高慢”になり、”豊かな時代”に育った更に”次の世代”によって一気に”衰退”へと向かってしまう。インドの三神の”創造神ブラフマー、維持神ビシュヌ、破壊神シヴァ”の構造そのもの、という事ですね。「破壊なくして創造なし!」新たな”創造”を作るには”何も無い時代”に戻さなきゃいけない。この”繰り返し”によって”人類の歴史”は築かれている、という事なのでしょう。となると、現代日本は”何も無い状態”にまで一気に没落する事は避けられない、という事なのでしょうかね? まぁ、そこまで行かないにせよ、おそらく今の”政治体系”は根本的に変わる日が来る、という事でしょう。いや、そうでなければ困ります! [歴史は繰り返す!]の続きを読む
  1. 2006/02/26(日) 11:54:23|
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歴史ミステリー⑤ 大化の改新の真相

615年、当時の”大和朝廷”を事実上牛耳っていたとされる蘇我入鹿が、かねてから彼の”専横”に不満を抱いていたとされる中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、高句麗、新羅、百済の使者が大王(天皇)への貢物を奏上する席に参加するために、飛鳥板蓋宮へ向かっている所を待ち伏せされ”暗殺”される、という”事件(乙己の変)”が起こり、その後中国の”律令制”などを取り入れた”天皇中心”の”政治機構”が作られました。これが世にいう”大化の改新”といわれる”政治クーデター”の全容です。

これまでの”通説”では、蘇我蝦夷、入鹿親子が”天皇”に成り代わって政治を”独占”していた”悪人”とされ、中大兄皇子と中臣鎌足が、彼らを成敗した”正義のヒーロー”とされてきました。しかしながら、この”説”の元になる書物は「日本書紀」という、その後の時代に中大兄皇子=天智天皇の”実弟”とされる天武天皇によって”編纂”された、あくまでも”体制側”の書物であって、当然”体制側”を”正当化”されるように描かれたもである事は間違いないはずです。となれば、”事の真相”はいかに!?

その”真相”とされる説はいくつか存在し、①中大兄皇子、中臣鎌足による”政権略奪”説、②蘇我親子”別王朝”説、③蘇我入鹿=聖徳太子説、④中臣鎌足=聖徳太子の実子説、⑤皇極天皇、軽皇子(孝徳天皇)親子黒幕説、などが上げられます。

まず、最も一般的に解釈されている①の”中大兄皇子、中臣鎌足による”政権略奪”説”ですが、これはあくまでも自分達が蘇我氏に代わって”政権”を牛耳る為に、時の”権力者”である蘇我蝦夷、入鹿を倒した、とする説です。まぁ、普通に考えれば最も”妥当”な説でしょう。そして、それが”成就”された後の時代のその”真実”を入れ替えてしまえば済む話ですから。しかし、それだけなら、ちょっと”説明不十分”な所も多々あります。もしこれが”真実”ならば、中大兄皇子と中臣鎌足とて”反逆者”である、という事。少なくとも、時の天皇皇極天皇がそう判断すれば、当然彼らとて”処罰”されるはずです。しかも、中大兄皇子は”皇族”でありながら、本来”天皇継承権”を持たない人物だったらしく、中臣鎌足も所詮は”貧乏弱小豪族”に過ぎなかったらしいです。そのような人達が、いきなり”クーデター”を起こせるような”武力”を持っているとは到底思えません。おそらく、”何者”かの”命令”によって動いていた事は間違いないのでしょう。

そこで、次に言われるのが②の”蘇我氏別王朝説”です。蘇我氏は、元々天皇とは別の”王族”だった、とする説です。となれば、当然、天皇とも匹敵する”権力”を持っていて当然でしょう。そもそも、日本が元来複数の”民族”、”国家”から成り立っていた事は、”魏志倭人伝”によって明らかになっている為、”大化の改新”が最終的な”国家統一”であった可能性も否定出来ないでしょう。そして、現在いに到る”天皇家”を”正当化”する為に”天孫降臨神話”をでっち上げ、あたかも日本は初めから天皇によって支配されていた”単一国家”であると「古事記」「日本書紀」では主張されてきた訳です。でも、それが実は”勝者側”によって編纂されたものであれば、”大化の改新”以前はまだ日本は完全に統一されていなかった可能性もあると思います。

その②の説の”発展系”の説として、実はその”蘇我王家=聖徳太子一族”であり、具体的に言ってしまえば”蘇我入鹿=聖徳太子”という説です。となると、太子とともに実権を握っていた蘇我馬子が入鹿の父蝦夷と”同一人物”という事になります。そうなると、「日本書紀」では、同じ出来事を”時代”を分けて”別の出来事”として描いた、という事になります。事実、「古事記」、「日本書紀」における”神話時代”の記述に関しては、このような”引用”をどうやらとっているようです。というのは、そこに出てくる”神”や”天皇”が、全国にある”神社”に祭られている”神”の名前を紐解く事で、実は”同一神”である事が明らかになったからです。ただ、”歴史時代”となるとどうでしょう? 同じ出来事を”別時代”に分けるという事は、その”歴史的背景”も関与してくる以上やや無理があるかと思います。それに、この説は一昔前には多くの作家も唱えていましたが、最近ではあまりこの説を唱える作家はいなくなっているようです。

で、今度はやはり”蘇我氏=悪人”を前提にした説で、彼らを討った一方の雄、”中臣鎌足=聖徳太子の実子説”です。この説は、その前に聖徳太子が彼とともに政治を動かしていた蘇我馬子に実は殺害されていた、とする説を”前提”としなければなりません。実際、この説は現在の所”有力視”されているようですが、その”仇討ち”としてその”息子”とされる中臣鎌足が中大兄皇子を頼って”敵”である蘇我親子を殺害した、というものです。されど、この説はあまりにもその確実な”証拠”が見当たらないし、現時点ではまだ取ってつけたような説でしかないのは事実です。

最後に、最近”有力視”されるようになった⑤の”皇極天皇-軽皇子(後の孝徳天皇)黒幕説”です。そもそも、”大化の改新”という事件を計画した”張本人”は皇極天皇であり、その本当の”目的”が、我が子軽皇子に”皇位継承”をさせるためだった、とする説です。それによって、まず、当時”次期天皇最有力候補”であった聖徳太子の息子とされる山背大兄王を”始末”する必要があったという事。その命令を蘇我入鹿に下していたとしたらどうでしょう? 現に、この件に関しては実は蘇我入鹿による”単独行動”ではなく、そこに軽皇子や他の豪族も加わっていた事が後々の資料によって明らかになっているようです。しかし、当然この”事件”に皇極帝の”嫡子”である軽皇子が加わっていた事が公になってはまずいはず。それと引き換えにこの事件の”指揮”を取った蘇我入鹿に”政治的権限”を一切任せざるを得なくなった、という事ではないでしょうか。となれば、皇極帝に対する”弱み”を握った蘇我入鹿が次第に”横暴”になるのも確かな話。そして、ついに手がつけられないほど、蘇我氏の”専横”が極まってしまったのではないでしょうか。となると、今度はこの入鹿を”殺害”せざるを得なくなる訳です。それを今度は同じ”皇族”である中大兄皇子と”祭祀”を司る一族であった中臣鎌足に命じた、という事ではないでしょうか。ある程度、自分の”手のひら”の上にいる連中であれば同じような”過ち”をする事は無いはずですから。そして、自分達の”系統”を”正統”とした”中央集権国家”を作るべく、中国の”律令制度”を取り入れ”大化の改新”を形作った、という事なのでしょう。その”事業”を取り仕切ったのは、”蘇我氏暗殺”の”実行犯”であり、”政治的器量”も備わっていたと思われる中大兄皇子と中臣鎌足だった、という事ではないでしょうか。

まぁ、いずれを取っても、この”事件”に皇極天皇-軽皇子親子が関わっていた事はほぼ間違いないでしょう。そして、蘇我氏がそれだけの”権力者”であった事も間違いないはず。それゆえ、天皇家と並ぶ”別王朝”の王であった可能性も否定出来ないでしょう。それから、聖徳太子に関しては、実は”複数”の人物の逸話をつなぎ合わせて作った”架空の人物”の可能性が出てきたようです。厩戸皇子をベースに、彼の”実弟”である久目皇子の他、様々な”人物像”を重ねて作った”聖人”で、もしかするとその中に蘇我入鹿の”人物像”もおそらく重ねられている可能性はあるでしょう。おそらく、”鍵”を握るのはかつての”天皇家”の様々な一派が、本当に一つの”血筋”だったのか?という事だと思います。”単独王朝”だったのか? それとも”複数王朝”だったのか? その”真相”はいかに!?
  1. 2005/07/24(日) 21:35:07|
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スーパーpsy野神

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